2ヶ月前に書いた(1)のつづきです。https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2019-11-11

山県有朋についての前記事で、《大局を見据える眼を持っていたがゆえに、軽挙妄動への抑えともなるはずだった。》と書いた。「軽挙妄動」は、昭和6年(1931)の満州事変と翌年の上海事変が頭にあってのことだった。

前者の発端となった「柳条湖事件」については、戦後のGHQの調査などにより、本事件は河本大佐の後任の関東軍高級参謀板垣征四郎大佐と、関東軍作戦参謀石原莞爾中佐が首謀し、軍事行動の口火とするため自ら行った陰謀であったことが判明している》(ウィキペディア)とあり、後者の発端となった「上海日本人僧侶襲撃事件」については、《当時の上海公使館附陸軍武官補田中隆吉 (当時は少佐、最終階級は少将)は、1931年10月初頭、板垣征四郎大佐に列国の注意を逸らすため上海で事件を起こすよう依頼され、その計画に従って自分が中国人を買収し僧侶を襲わせた、と1956年になって証言した》(ウィキペディア)とある。この両事変に際し、参謀部次長としてその収拾の任に当たったのが真崎甚三郎だった。そもそも関東軍が、北京天津をも一挙に占領せんとする企図をもって起こしたのが上海事変だった。しかしその意に反して真崎は、停戦協定が結ばれた時点で一兵残さず上海から引き上げさせることで、その後の戦線拡大を押しとどめた。このことが、後々までつづく真崎排撃の第一因であった。

真崎の考えは、満洲国の安定・「皇道精神」に基づく体制構築・対中関係安定・対列強関係修復を目指すことにあった。対する「統制派」の志向は、対外的には北支への戦線拡大、国内的には変革気運の醸成を図るというものだった。実はそれは、世界共産化を目指すコミンテルンの方針に呼応するものであった。陰に国際的スパイの暗躍がある。尾崎秀美がゾルゲ諜報団の一員として本格的に活動するようになるのは、まさにその頃、昭和7年(1932)のことだった。「まえがき」は広西元信の文章で締めくくられる。

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