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山口富永著『昭和史の証言ー真崎甚三郎・人その思想ー』を読む(3)日中戦争へ [本]

二・二六事件後、岡田内閣退陣後の広田内閣、その陸軍大臣寺内寿一は、真崎を死刑にしようという方針だった。阿南惟幾大将が「寺内大将は二・二六のとき参内して、陛下に、この事件の黒幕は真崎大将であると上奏してあるため、何としても、真崎大将を有罪にするか、官位を拝辞させねばならぬ羽目におちいっていたのである。」と弟の真崎勝次に語ったという。(145p)寺内寿一は首相も務めた寺内正毅大将の長男で「育ちが良く、周囲や部下に細密な気配りができ、陸軍では下士官や兵に人気があった。」(ウィキペディア)というが、空気を読むに敏であったのだろう。寺内が感じていた通り、当時の空気は真崎にとっては決して好ましいものではなかったにちがいない。その空気判断からの上奏であったのだと思う。上奏した以上引っ込みがつかぬ。寺内の定見の無さも見て取れる。

遠藤三郎中将(当時中佐)による、寺内が大臣を務める当時陸軍に対しての厳しい見方がある。遠藤は、二・二六事件事件の最中、反乱軍幹部の間を駆け回って事件収拾のために力を尽くした。その遠藤、事件後成立した広田内閣における陸軍について《軍隊の生命とも言うべき肝心な軍紀の根源である服従の解釈が出鱈目でありましたから、粛軍どころか軍隊を破壊したばかりでなく、陸軍大臣を現役制に復活するなどかえって軍部のわがままが強くなっていった様でした。》と振り返る。(『日中五十年戦争と私』1974) 寺内寿一の無定見がその後の軍部独走体制をつくったともいえる。

陸軍大臣として寺内は、真崎を取り調べる軍法会議の議長であり、起訴後は裁判長として判決を下すことになる。起訴された真崎の裁判は、銃殺の意図をもって進められるが、寺内は昭和12年7月の盧溝橋事件に発する支那事変対応で北支に転出する。結局のところ、真崎は銃殺を免れ無罪となるのだが、真崎抹殺の寺内の意志は固く執拗である。獄中の真崎に対して検察官が「あなたの終始不変の主張は非常に有利で、私どもは感情で仕事をせぬからご安心ください、(釈放は)もうすぐですから」と言い、その後看守長からは「検察部より釈放の命令がありましたから、只今物品の整理中です。」とまで言われたにも関わらず、釈放はお流れになっている。後にわかったのは、寺内大臣から電話で釈放停止命令があったというのだった。《「出獄後岩淵(辰雄)君に聞けば、このころ私が娑婆に居ると、陸軍には非常に都合の悪しきことがあったそうである。」》(148p)かつて真崎によって押しとどめられた北支進出、真崎排撃の統制派にとって、真崎を獄中においての盧溝橋事件はまさに戦線拡大の好機到来だったのである。かくして日本は、日中戦争の泥沼に踏み込んでゆく。真崎は事変が起こったのを獄中で聞く尋常ならざる列車の響きから察したという。
真崎甚三郎「人天交接」.jpg寺内によって獄中に押し込められたままの真崎は、寒中の獄中で21日間の断食に入る。《「・・・ここに於て私は腐敗したる人間と話を交ゆるのがいやになり、予て研究修養しつつ、ありし法により、断食を決行する気分も起きたのである。」この断食中のある日、独房の中空に金色さんらんと光る、「人天交接」という文字が見えたという。このときの字を思い出して、そのまま書かれたものが残っている。》(148p)(「人天交接(にんでんきょうしょう)して、両(ふた)つながら相見ることを得ん。」人間界のものと天上界のものが互いに心と心が通い合って両者共に仏の教えに帰依すること。ー法華経ー
寺内に代わって裁判長になったのは、磯村年大将だった。磯村は、「何でもかまわぬから、真崎は有罪にしろ」という寺内に対して、「そんな、調べもせんで有罪にしろというような裁判長を、自分は引きうけられん」と強く断って任についた。真崎は磯村裁判長の下で無罪判決が確定することになる。後年磯村大将は「あれは随分綿密に調査したが、真崎には一点疑うべき余地がなかった」と明言している。(小山寛二主宰『騒友』”二・二六秘話に寄す”)
敗戦後真崎は「真相を書き残せ」との友人の勧めによって遺稿を残す。《「日本が今日のような哀れな状態に陥ったことについては、勿論色々原因や大きな理由があることは言うまでもない。併し古今東西の国家興亡の歴史を繙いて見ると、何処の国にも所謂る宮中、府中の重臣や権臣達の権謀術策が国家の大局を過った如く、日本の崩壊にも此の点が見逃せないのである。私をして言わしむるならば、我が宮中、府中の重臣達が只徒らにデマや宣伝に踊って、例えば満州事変に就いても。其の原因を究めようとせず、 況してや三月事件、十月事件、十一月二十日事件の真相に就いても。拱手傍観して却って巧妙極まる陰謀や術策に陥ってしまって、取り返しのつかぬ今日の状態を招いてしまったのである。」と。「従って、二·六事件の如きも、只一途にデマと宣伝に乗せられ、其の背後に真崎ありと見誤り、或は故意に真崎ありと看做して、真崎排除に躍起になったのは当然である。此が一種の大陰謀であったのである」と語っている。が、真相も知らず真崎弾圧に踊らされる幕僚たち、そのまた愚かな統制派幕僚たちに踊らされるマスミ、文筆業者、海軍通の伊藤正徳も、ついに事件の真相を掴めず、歪んだ軍閥興亡記を残している。むしろこの現象の底に、再び日本が亡びゆく道を辿る姿が見られるように思われる。》(158p)現在への警鐘でもある。(つづく)



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