『旧約聖書』創世記第22章、アブラハムは一人息子イサクを神の命のままに生贄に差し出す。殺そうとしたその時、神は、「汝の子、汝のひとり子をさへ、わたしのために惜しまないので、汝が神を恐れる者であることを私は知った。」の言葉とともに中止の命令が下る。著者(長谷川)は言う、《アブラハムはまさに「神人対晤の至高の瞬間」を目指して、三日間の旅路を一歩一歩たどってゐたのだ・・・ただ神に呼びかけられて、神と一対一で対面すべく、三日間の旅路をたどつたのである。・・・そのおともする者は誰しも「思想のわななき」を覚えずにはゐられないのである。/そこには間違ひなく、宗教の本質にひそむ「おののかせる秘儀」がかいま見えてゐる。》(219-220p)アブラハムは、ひたすらな「神への愛」を貫徹したはずだった。しかし土壇場で神の拒絶にあった。アブラハムは身代わりの羊を献げ、神からの祝福の言葉を受ける。

著者(長谷川)はその時のイサクを思う。《彼は、或る朝はやく、どこへ何しに行くのかもわからぬまゝに、父に連れられて旅に出る。・・・彼はなにかにつけて、いつのまにか受動的な役割へと押しやられ、それに甘んじる人物として描かれてゐる。・・・将来すべてのユダヤ民族の父となるべきこのイサクは、ただ、まるでデクノボーのやうにたきぎの上に載せられ、次にそこから降ろされるだけなのである。これはなんとも異様なことと言ふべきではなかろうか?・・・ここでは、もっとはるかに深刻な神学的問題を引き起こしてしまふ・・・つまり、自らの死を神に与へやうとしてゐる者にむかつては、神は中止命令を下してはならないのである。それは奉献そのものの拒絶を意味し、神と人との関係をそこで切断してしまふことにほかならない。》(225-231p)イサクの思いは、二・二六事件で散った神霊英霊たちの「たいへんな怒り」、また8月15日の放送を聞いての吉本隆明の「名状しがたい悲しみ」の慟哭そのものに通ずる。