昨日「「狂気」が「空気」の世の中です」と書いた。→https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2021-09-12-1 mespesadoさんが紹介していた文が身につまされた。《戦時下はこんな状況だったのだと、いまは肌感覚で理解できます。教育を受けた我々は、あの頃の人々とは違う。同じ轍は踏まないと他人事だったのは単なる思い上がりでした。お国のためにと竹槍を持ち特攻したあの頃と、私たちは何も変わってない》(カモノハシの旅人@sanjinowatashi)「どう生きるか」が切実に問われている。当面する課題の前でのジタバタはそれはそれとして、じっくり時代の流れ、その底流に身を置いてみること、それにはうってつけの一冊だ。座談を終えたところで、仕切り役の末木氏が言う。《実に丸一日にわたる座談会でありまして、私としてもすごく贅沢な時間でして、人生の最良の日みたいな思いがしています。》(169p)この言葉、決して誇張ではない実感として伝わった。
- 本
その前の若松英輔氏の発言がこの本のまとめにふさわしい。《「死者と霊性」の問題が、両方とも語り得ないものであるという認識は、共通していたと思うのです。ただ、それは語り得ないものだけれども、「浮かび上がらせる」ことはできるのではないかと、ずっと考えています。語ろうとすると逆に、それを矮小化したり、あるいは制限したり、あるいはいびつにしたりすることがあるかもしれない。私たちが何かそうではない別の方法をとることで、そのものが顕現してくることがあり得るのではないかと考えています。/もう一つは、死者や霊性を概念としてではなくて実在として認識していくことがとても重要だと感じています。実在というのはそれを可視的にすることではありません。それはかたちを変えた死者の物質化です。/死者でなくても、愛という問題もそうです。愛は実在ですが、ある意味で感覚を超えたものです。それを概念化したとき死物になる。死者も霊性も似ていて、これが死者です、これが霊性ですというようなものではない。/(中島)隆博さんが「実践」という言葉をおっしゃっていましたけれども、叡知の実践がどういうふうに行われるのか、今後とても大事な問題だと思っています。「民藝」というのは浮かび上がってくる「美」の異名だと思うんですけれども、私たちはそろそろ、言葉を用いるだけではなくて、別のかたちで何かを顕現させていくような叡知のあり方を考えていくべきではないかと思っています。》(168-169p)要するに先ずもって、「死者」も「霊性」も「生きている」そのこと自体と切り離し難く、すでにここに「在る」ことに思いを致すこと。いま、時代の課題はそこにある、そう思う。「正気」に還れ!