第三の改革をリードするのは、莅戸善政の嫡子莅戸政以(1760-1816)。父善政の死後、奉行等の職をそっくり引き継いだ政以は、文化二年(1805)の藩政意見書でこう述べる。《安逸に流れやすい風潮を一変し、民の習俗を勤勉なものに移行させることは、「治国安民」実現の基礎であり、時勢の急務である。‥‥道楽・不稼ぎを何よりも恥ずかしいことだと思うような習俗に移行させたいものである。》(159p)この方向は藩民意識の大転回を意味する。《こうして広がりはじめた通俗道徳は、家の存続という願いを込めた民衆の大きな努力を引き出す一方で、個々の家の経済的浮沈の原因を、領主の政策ではなく、道徳的な自己確立の成否(個々人の善行や怠惰など)に求める自己責任論的な社会意識を生み出していくことにもなる。》(160p)もう藩の改革は軌道に乗った証左とも言える。米沢藩の場合、第一の改革、第二の改革の成果あればこそ、意識はひとりひとりの生き様に向けられる。自己意識の目覚め、近代への準備が整いつつあるということか。きっと、この流れの中から「置賜発アジア主義」も生まれたのだ。

「北条郷農家寒造之弁」(『日本農書全集』第18巻)の解題に、元禄5年(1692)から文久3年(1865)の米沢藩の人口推移表があった。元禄5年(1692)を100とすると寛政5年(1793)が75、100年間で1/4の人口減少。全国的にはどうだったかの統計グラフ→がある。全国的には亨保7年以降の10年間に4ポイント増加しているのに、米沢藩は逆に4ポイント減少。この頃の米沢藩の状況、4代綱憲の実父吉良義央が殺害される赤穂事件が元禄15年(1703)、2年後綱憲隠退して長男吉憲が5代18年、吉憲は在任18年で享保7年(1722年)に死去、長男の宗憲が第6代、宗憲も享保19年(1734年)に死去、第7代を弟の宗房が継ぐが、これも延享3年(1746年)に死去と、病弱な藩主が相次ぎ10年そこそこの短期間での入れ替わり。《第8代は宗房の弟の重定が継ぐ。重定は先代までのように病弱ではなかったが暗愚で、藩政を省みず遊興にふけって借財だけを増やした。このため、米沢藩の財政は危機的状況に陥り、重定は幕府へ領地を返上しようと真剣に考えるほどであった。》ウィキペディア)竹俣当綱らによる森平右衛門誅殺の宝暦13年(1763)まで15ポイント減、その後10年の間にようやく上昇に転ずる。9代鷹山公相続の明和4年(1767)頃は上昇に転じている。天明の飢饉による米沢藩の減少率は全国に比して、たしかに小さい。寛政5年(1763)を底にその後は順調に上昇、天保の飢饉では全国的には減少した時も、米沢藩は増えている。改革の成果で飢饉を克服した。幕末の文久年間には、ほぼ元禄赤穂事件(1703)の頃に追いついている。