「北条郷郷村出役北村孫四郎に見る鷹山公改革の現場」(市民大学資料) [上杉鷹山]
目賀多信済(めかた・のぶずみ) による肖像画
米沢藩御用絵師。1786〜1847(天明6-弘化4)年。出羽国米沢生まれ。小納戸役の矢嶋欽右衛門長寄の三男であったが、目賀多信與の養子となり、雲川と号す。ほかに雲林、幽石、適意斎などとも号した。1801(享和元)年信與の隠居に伴い16歳で家督を継ぐ。のちに第11代藩主上杉斉定(1788-1839)の絵事勤仕として仕えた。1819(文政2)年、鍛冶橋狩野家七代の狩野探信守道に入門し、修業を積む。山水、人物、竜虎、花鳥のいずれにも優れ、目賀多家の門人である下條桂谷は「墨色やや濃しと雖も、谷文晁に匹敵すべき大家なり」と激賞、南・北目賀多家を通じ最も傑出した名人と伝わる。弟子に若井牛山、百束幽谷らがいる。62歳没。米沢の信光寺に眠る。主な作品:《山水図屏風》《布袋図》など。(https://artscape.jp/study/artachive/10143321_1982.html)
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◎はじめに
・莅戸善政建言書案 (安永3年(1774)3月13日 上杉博物館蔵)
藩主となって7年目、24歳の上杉鷹山に向け、小姓頭の莅戸善政が記した意見書の下書。
①これまでの政治は家臣を頼ってぱかりだったが、鷹山自身身が政治に心を注ぐこと。
②家臣や諸役人が尽力しても、君主(鷹山)が努力しなければ、「砂山を上り、虚空をつかんで天に昇ろう」とするようなものだ。
③日常、「あらぬ無駄口話、軽口はずみ」に時間を過ごし、自分の意見がない。
④学問の意味が分からないのか、ただ本を面白いと読み流すだけで、政治に応用していない。
⑤服装や仕草が江戸風ともいうべきか、俗にいう色男、伊達男、あるいは「女郎」のようなので、威儀を正すよう注意すること。
【存寄(ぞんじより)】
高鍋藩が17世紀末ごろから顕著に見える施策で、家中士に積極的に藩政に対して献言(意見の具申)、献策を させる「下意上聞」の体制。
江戸麻布のお屋敷邸で、幼ない鷹山公の御養育係をしていた三好善大夫重道は、鷹山公の養子縁組に際し贈った『はなむけの書』も存寄の一環と言える。《身分の上下を問わず、わが身に天より受けた明徳を曇らせないように御修業なさることを専らにお考え下さい。その理由は、身分賤しい者でも、自分が心を清く明るくもち、善い行いをしない時は、小さな家でも治まりません。まして身分の高い御方は、御自分が曇りのない鏡のような御心でないと、下々の善悪を見分けることができません。・・・善人が遠ざかり悪人が近づくようになりましては、自然と君主でも悪に移ります。それが小さいことであれば身を失いますし、大きいことであれば家を亡ばし国民に難儀が及びます。従いまして、絶対に御修業が大切でございます。・・・善と悪ほ両立いたしません。善に進めば悪が退き、悪が行われれば善が消えるものでございます・従いまして仮初にも悪事に傾かれることなく、善い事にお進みなされることが大切でございます。》(『米沢風土記』https://ameblo.jp/yonezu011/entry-11272051141.html)鷹山公は、この書を生涯座右の銘とし処世の鑑として大切にした。
平成25(2013)年、「白鷹山に『伝国の辞』碑をつくる会」発会総会での遠藤英先生のお話がいつも頭にありました。《鷹山公を美化してヒーローにしてはいけない。あの人は天才なんだ、神様みたいな人なんだと言っちゃうと、われわれは真似ができなくなってしまう。鷹山公は、今の高校生ぐらいで殿様になった。それから名君と呼ばれるようになるまで、どれだけの失敗と苦労があったことか。鷹山公をひとりの人間として追っかけてゆくと、失敗したり、あれこれ工夫したり、みんなで知恵を出し合ったりという実際いろんなことがある。それが全部われわれに役に立つ。われわれと同じようなその辺りの人ががんばったんだということで、われわれの手本になる。すばらしい人で、目標にすべき人ではあるんですけど、あまり棚の上に載せてしまわないで、丁寧に見ていただいて真似をしていきたいなと思うのです》
◎鷹山公の改革(小関悠一郎『上杉鷹山ー「富国安民」の政治』岩波新書による)
←図録『上杉鷹山の生涯〜藩政改革と家臣団』(上杉博物館2021)より
・宝暦元年(1551)鷹山公誕生
・宝暦10年(1760)上杉家世子に。北条郷青苧騒動
・宝暦13年(1763)竹俣当綱により森平右衛門誅殺
・明和4年(1767)鷹山公藩主就任。明和・安永の改革(竹俣当綱)
・明和6年(1769)鷹山公、米沢に初入部
・安永2年(1771)大旱魃(鍋田念仏踊発祥)
・安永4年(1773)七家騒動
・安永6年(1775)漆・桑・楮、各100万本植生着手
・安永7年(1776)興譲館再興
・天明2年(1782)竹俣当綱隠居
・天明3年(1783)飢饉始まる。莅戸善政隠居
・天明4年(1784)鷹山公隠居。「伝国の辞」を治広に
・天明7年(1787)郷村出役廃止
・寛政2年(1790)藁科立遠「管見談」
・寛政3年(1791)莅戸善政中老になり寛政の改革始まる
・寛政4年(1792)郷村出役復活
・寛政6年(1794)黒井堰完成
・享和元年(1801)「伍什組合」始まる
・享和2年(1802)「かてもの」刊行
・享和3年(1803)莅戸善政死去。莅戸政以による「第三の改革」へ
・享和4年(1804)北村孫四郎、北条郷郷村出役に就任
・享和5年(1805)「北条郷農家寒造之弁」
⑴「明和・安永改革」竹俣当綱(1729-1793)
《何度も鷹山の部屋に忍び込んで、藩主としての心構えから米沢藩の歴史・風土の至るまでを説き聞かせた。目の前の少年が立派な上杉家の当主に成長してくれるのが、とにかく心配で仕方なく、常々気を揉んでいたのである。》
根底に荻生徂徠の経世論《「どれほど自分の心身を修めても、国家を治める方法を知らなければ全く無益である」(『徂徠先生答問書』)。徂徠はさらに、為政者は自身の人格的完成よりも政治的な結果を求めることが重要だという、朱子学批判に基づいて編み出した観点から、現実の政治・社会の立て直しを目指した経世済民論を次々と打ち出した。》
《君主の治める国土には当然、農耕に適さない土地もある。だが、一見、利用価値が低いように見える土地であっても、必ず何らかの地力(生産力)を備えている。そう見れば、土地の力は無尽蔵なのだ。そこから産出された各種の産物を他領に移出すれば、人民に有用、かつ国家の利益ともなる》。竹俣はまた「富国強兵」策を《「民利」「民冨」を実現するための政策として読み替え》て改革の理念とした。このことは《米沢藩という一藩に限られたことでありながらも、近現代にまで続く「富国」の政治目標化の端緒を築いたという意味で画期的なことだったのである。》
⑵「寛政改革」莅戸善政(1735-1804)
経済一辺倒は利害の対立を表面化させ、あわせて士風の頽廃を招くとの批判が第一の改革を率いた竹俣当綱に向けられていた。善政は《身分によって経済的利害が対立しがちな藩の政策が領内の四民全体のためのものであると強調することによって、改革への理解を得ようとし》《中でも基幹産業を担う農民の利益を優先すべきだという考え方に基づいて改革を進めたのである。》、それは現場を担う村役人層へも浸透してゆくことになる。この改革は、人心への働きかけを求めることになる。《「人心を統合して、一致団結させる術は他でもありません。恐れ多いことながら、上様の憐れみ深い仁徳を顕然と施示すること、重臣が仁恕あつく忠良であることに止まるのです」(『樹人建議』)・・・君徳があれば国は治まると素朴に考えるのではなく、そのアピールこそが重要だという考えを、莅戸は端的に表明したのである。》
寛政4(1792)年には「地産地消」宣言、《「今度、御上が御身のまわりで用いられる物を始め、全ての公儀御用の物品は、善くも悪しくも御国産の品を用いるとのご意向である。これは四民の衰えを痛まれたありがたい思し召しであるから、貴賎となく生業に力を尽くして国産が盛んになるよう心懸けよ」》さらに寛政9年には、《今度、御国民のため蚕桑を取り立てるようにとのご意向で、御本丸・御奥においても養蚕をお試みである。これにより家中一族あげて養蚕に取り組むように」(御代々御式目)と触れられた。》
善政は鷹山公の影となり日向となり、時には叱責さえしつつ盛り立て、ただひたすら藩政のために鷹山公を「明君」に仕立て上げていったことがよくわかる。北村孫四郎、黒井半四郎といった傑物出現も善政あってのことだったのだと思う。善政の需めによく応えうる鷹山公の資質と努力あってのことだが、莅戸善政の導きあった上での、後世に語り継がれる「明君」上杉鷹山公の存在であった。
《莅戸善政晩年の享和元年(1801)には、藩の行政組織としての五人組と、農村の自然発生的共同集団としての契約組(宗門組・所納組・若衆組・天神講・文殊講など)の機能とを統合した「伍什組合」の編成を指示している。年貢収納の連帯責任や相互扶助機能を強化するため、五人組三組一五軒を単位として編成されたこの組合は、村落の自主的組織を基盤として藩の支配行政組織を構築しようとした「きわめて巧妙な政策」ともいわれる(『村史なかつがわ』)》
【農家伍什組合掟書」現代語訳】
高畠町夏刈の紅一点酒造にあった「伍什組合」掟書屏風(米沢市六郷 農村文化研究所 所蔵)
農民の天職は農(農作物を作る)と桑(蚕を育てる)にある。これに励んで父母妻子を養い、税を納めて藩からの世話を受けつことで人々は安心を得て家々も栄えつづけてゆく。とはいえそれは一人がんばってできるものではない。互いに助け合う組合があって生涯の安寧も可能となる。これまでも組合はあったが十分頼りになるものではなかったようである。
そこで新たにあらためて伍什組合ならびに近隣の五ヵ村組合を設けることとする。
五人組は、常に睦じく交わって苦楽を共にすること家族のようでなければならない。
十人組は、時あれば親しく出入してお互い事情を理解しうこと親類のようでなければならない。
ひとつの村では互いに助け互に救い合ってその頼もしさは友人のようでなければならない。
五ヵ村組合の村同士は苦難にあって相互に助け合い、隣村同士のよしみの甲斐あるようでなければならない。
このようにそれぞれ組ごと絆を強くして交流し、老いて子がなく、幼くして親がない、あるいは貧しくて養子得難く連れ合いに先立たれ、あるいは身体の不自由ゆえ身過ぎままならず、あるいは病気治療行き届かず、死んでも弔いなしがたき、または火事にあっては雨露しのぎがたき、変災に遭っては一家立ち行き難き、かように難儀いかようにもし難きものがあるならば、
まずは五人組がわが事として世話致し、それで及ばぬ事あれば十人組が力を合わせ、それで及ばねば村での世話で難儀を除き、その生涯それ相応無事のうちに遂げしむるようにしなければならない。さらにそれ、もしも一村大なる災害に襲われその村立ち行き難きほどの危機に際しては、近隣の村はよそ事として傍観することなく、かかる時ほど近隣のよしみ、四ヵ村頼もしく救済にあたらなくてはならない。
善を勧め悪を戒め、倹約を守らせ贅沢を抑えてそれぞれその天職にいそしむようにすることが五什組合本来頼もしき務めでなければならぬ。自分の天職を捨てて本来ならざる業にはしる者、また歌舞伎、狂言、酒宴や遊興に耽る者、博打や賭事をなす者あらば、まずもって五人組で教えさとし、
それでかなわねば十人組で意見をし、それでもわからぬに至っては、ひそかに村役にまで相談の上、上からの相応の処分を待つとすべし。
右の通りであるので、頼りがいのある組合をつくることで、村々家々永く続けることができるように。
享和元(1801)年二月 中條(至資)
莅戸(善政)
⑶「第三の改革」莅戸政以(1760-1816)
《十八世紀半ば以降は、「風俗」の立て直しが政治・社会の大きな課題と見なされた時代である。・・・ここで「風俗」というのは、現在の一般的用法とは異なり、衣食住のくらし・働き方・家族関係・行動規範・倫理観などを包括的に表現した言葉だ。・・・江戸時代の人々は、生活・行動様式の総体とそのモラルを「風俗」と呼んだのである。・・・江戸時代後半の日本でも、未来のため、いかなるモラル・生活スタイルを定着させていくべきか、その実現のためどう働きかけていけばよいのか、「風俗」のあり方が深刻に問われ始めていたのである。》
年貢を払えない貧民についてどう考えるか。《領内の民は、一人として「御国民」でない者はいない。以後も長く「御国民」であり続ける者に対して、わずか一年の年貢の収量を増やそうと、翌年からの貧困を顧みずに無理やり取り立てて納入させるのは、「小利大損」である。そればかりか、「民の父母」として子である領民を愛すべき人君の仁心に背くものである。「天」は、民の利益となりくらしがよくなるようにと国主邦君を立てられたのである。どうして「民利」を奪い掠め取ることがあっていいだろうか。(『子愛篇』)》
鷹山公の「伝国の辞」の基調をなす、「民は国の本」という「民本」の思想である。では、それを領民に周知浸透させるにはどうするか。「中間に処する農官の処置は甚だ難しき事」である。《農民が「力田」に向かうように仕向けることこそ、民政の最重要課題なのだ。農官による指導により、農民の「風俗」を労働集約的なものに移し変えることで、米を中心とする農業生産額をあげようではないか。(『冬田農談』)》そのためには上からの強制ではなく、農民自身の中からインセンティブを生まねばならぬ。《「富国安民」を実現しようとすれば、「稼ぎ働かねばならぬように鼓舞扇動」し。「計略を以て識らず識らず我と我が身を稼ぎ働かしめるの術」が必要というのが、莅戸政以の改革構想の基本であった。》
北村孫四郎は、当時50石取りであった文化元年2月、北条郷を管轄する郷村出役(ごうそんしゅつやく)に任命される。北村は天明元(1782)年に家督を相続、馬廻り組に属していた。任命前の北村は、漆山村に10年間滞在しており、百姓の仕事も渡世もここで覚えたという。
北村は、郷村出役として管轄下を走り回り、日々の出来事を日記に記すとともに、その体験をその場限りにしないための手引書を作成して住民への一般化を図った。
◆まえがき
《寒造りとは大寒の時期に醸造した酒のことであり、夏の極暑の日々でも変質して味や香りが悪くなることはない。酒ばかりか、五穀はすべて寒中の水で加工すれば傷むことはないのである。大寒の時期に搗き砕いた豆の粉は、梅雨を越し、夏の極暑を越し、秋になっても品質が変わらない。これらはいずれも、寒造りをすれば季節の変化にあっても少しもそれに左右されないという事例である。草木は真冬に芽ぐみ、春を待っていっせいに芽を吹くのだから、百姓もまた意志を強くして、冬の間に翌年の農作業の計画を練り上げておかなければならない。それなのに、年の暮れも押し迫ってから、はじめて長かった一年をうかうかと過ごしたことを思い出し、大いに反省して翌年の心がまえをしようと思うけれども、まためぐってくる快い春の陽ざしに気がゆるみ、いつの間にか手足にのうのうとと楽をさせ、盆になればたらふく食い、そのうえさらに迎え酒をするという持病がまたぞろ起こり、魚売りの声には耳ざといが、朝早く飛んでゆくカラスの声を聞くこともなく寝ている日もあるにちがいない。これこそまさに寒造りをおろそかにした見本ではあるまいか。このことを考えて農民は本年の寒中には心を入れかえて、翌年こそはふらふらせずに仕事に精を出し、節約に心がけて安定した暮らしをしたいと願うのである。いまは文化元年十一月末日、私は病身ではあるが、持薬を持つ手に筆をとり、漆山村の仮住まい「蝶夢亭」で本書を書き記すわけである。 源 信精 》
◆家々蚕すべき村 万の事
《・・・自分の天職である農業にこれまで以上に努力して金銭を稼ぐことを知らない者は、その誤りのために一生難儀して、お金に不自由な暮らしをせねばならず、けっして年中の気苦労から解放されることはないのである。・・・一村落が覚悟を決めて養蚕に取り組むなら、最初はわずか金一分か二分の利益しかあげることができなくても、二年目三年目となって村内に養蚕の名人が出るようになると収入も増加するようになる。・・・これは一村落の生業の基本から考え直し、新しい仕事を始めたからにほかならない。したがって、近年価格の下落した桑の葉を他人に売ってわずかの桑代金をとるよりも、農家の女たちがその金を蚕に与え、わずかの手間でより多くの糸代金をてにするほうがはるかに賢明である。・・・前に耕地が開け、後方に山をかかえているような村里は、地味が豊かで作物の生育が良いのは当然であり、努力次第では多くの桑畑を開発することができるはずである。》
◆悪田を美田に改良する手立てについて
《・・・まことの農民というのは、三度の食事を四度にふやしてもよく働き、五俵の飯米を七俵炊いても一所懸命に働く者のことてある。毎日の飯米を節約し、そのため仕事に精が出せないというのは本当の農民ではない。田畑もまたこれと同様である。満足な食事をあてがわなければどうしてよい実りが期待できようか。自分が空腹では仕事ができないように、田も空腹では力が出せないと思いやるべきだ。田に充分な肥料も入れすに収穫の少ないことをうらみ、田地の責任にしてしまうのでは、渋田や冷田を改良する妙薬があってもそれらの田を全快させる方法はない。つまり、肥料の貯えがなによりも大切なのである。・・・大黒のたからは土の内にあり 唯打ち返せ蓑と笠着て(莅戸善政)・・・村々の利益となるように、この一冊の中からその村に適した対策を選んで実行し、成功するように努力してほしいものである。》
2014年、北村孫四郎の日記十数冊が発見され米沢市立図書館に所蔵されている。北条郷郷村出役を勤めた文化元年(享和4年・1804)2月から文化4年2月まで、さらに文化5年6月までの4冊分が『南陽市史編集資料』第45、46、47号に復刻されている。
◆蚕業推進の事
①文化元年3月4日②6月20日 ③7月2日 ④7月26日 ⑤11月20日
⑥文化2年、若狭郷屋村に「桑を植え立て、女の業に蚕を致させ候えば、順々立ち行きの道明にも相至るべし」として藩より53貫文余りの資金援助。(小関『上杉鷹山』)
⑦文化3年春、荒地開発と桑植栽を申し出れば開発費用支給するとの通達。
【53貫文はどれくらい?】
一貫文=1000文。江戸時代の銭相場は変動相場制であること、さらに物価の変動(物価の上昇)によってか、江戸前期、中期と後期、幕末とはかなりの変動がある。 明和4年(1768)4月に真鍮四文銭が発行されていますが、この四文銭は現代の100円硬貨に相当するといわれる。幕府が定めた御定相場(望ましい公定相場)は 金1両=銀60匁=銭4貫(4000文) でしたので、1両を10万円とすれば、1文は25円になります。従って、一貫文は2万5千円 。ただし、四文銭が出てから銭相場が下がり、天保通宝(100文銭だが80文で通用)が大量に流通したため銭相場は暴落した。江戸後期にかけては一文は20円程度になり、幕末にかけては一文7円程度の価値。したがって53貫文は106万円。
◆《一反の田から米4俵、その収益は5〜6貫文、これに対して、200貫の桑を扱えば収益は15貫文あまり。8〜9貫文の増収。公(藩)としては田畑の年貢減収が一切なく、民の側でも収入倍加で「富国」の道が大いに開てきた。》(藩政意見書『背曝(せあぶり)』)→「国富民豊』、鷹山公の君徳政治評価。→蚕神となった鷹山公 ①白鷹町高玉円福寺「治憲大権現」。②白鷹町菖蒲地区の女子衆による養蚕講。(鷹山の肖像画を掲げて「大和大聖人上杉鷹山公」と33回唱える)ともに上からお祀りしなさいと言われたものではなくて、領民が自発的に行った。
鷹山公騎馬像(円福寺) 養蚕講の鷹山公(信好 画)
◆旱ばつの事文化2年4月頃より旱魃の兆候あり。堤荒れ処見分、備えモミの貸付け、村々からの議定書提出等の記載あり。
①5月8日 ②5月11日 ③5月12日 ④5月13日 ⑤5月20日 ⑥6月1日 ⑦6月28日 ⑧7月2〜4日 ⑨7月5、6日 ⑩7月8日
【鍋田念仏踊】
安永2(1773)年、未曾有の大旱魃で、鷹山公これを憂慮し、6月7日北条郷の寺院を宮内熊野神社に招集して雨乞いの祈祷をなさしめた。郡奉行長井庄左衛門断食にて参籠。然れども雨十分ならず。鷹山公、与板組の申し出により、松川の流れを糠野目村で汲んで清野堰を流す。このことで15ヶ村公の御仁徳に感泣して鷹山公による御神符を作神としたのが大符神社。安永3年6月15日建立。この構想は、寛政7(1794)年完成の黒井半四郎による黒井堰へと引き継がれた。
◎むすび
◆小関悠一郎『上杉鷹山』(岩波新書)アマゾンレビュー(
「利」の先の「義」こそが現代的課題 ☆☆☆☆☆
前著『上杉鷹山と米沢』で鷹山公の実像に迫る新たな視点をさらに固める好著。この本の意義を2点あげたい。
ひとつは、高鍋藩秋月家から上杉家に養子に入った鷹山公だからできた藩政の立て直しという「地元ダメ、よそ者エライ」的感覚をぶちやぶり、鷹山公が「明君」たりえたのは、そうあってもらわねば立ち行かない切羽詰まった家臣団の思いあってのことだったことを明らかにしてくれたこと。幕府への領地返上まで考えねばならない窮地に立たされた米沢藩家臣たちは、切迫した思いをもって幼少の鷹山公を見出し、鷹山公を「明君」に仕立て上げることに成功した。貧すれば鈍す、地元はえぬきの人材枯渇の中に舞い降りた一羽の鶴のおかげで救われた、そんな思いこみは覆った。家臣の間には、謙信公以来の上杉家の矜持が生きていた。その上での「明君」鷹山公だった。第一の改革を担った竹俣当綱、第二の改革の莅戸善政、共に鷹山公への大きな期待を抱きつつ、文字通り命がけの修羅場をくぐり抜けた。鷹山公はよくその期待に応えうる資質を備えていた。最大の試練であったにちがいない七家騒動を乗り切った後の鷹山公に、気の緩みを見てとった莅戸善政の容赦ない叱責に緊迫した君主関係を見る。こうしたプロセスを経て上杉武士の矜持は鷹山公に伝わっていった。
もうひとつ、莅戸善政の子政以がリードした第三の改革に光が当てられた意義も大きい。第一の改革、第二の改革によって藩経済は軌道に乗った。しかしそこから新たな課題が生まれていた。《自然と利にも趨(はし)りやすく成り行き候事、勢いの自然とは申しながら残念なる事》(『仰示』1804)の鷹山公の言葉が残る。寛政の改革が軌道に乗り出すと、米沢藩士の間には利を求めて販売に従事する者、商人のように藩外との取引を行う者も多く出るようになった。それゆえの摩擦軋轢をどう乗り越えるか。それが第三の改革の課題であった。藩民意識すなわち「風俗道徳」が課題となる。それこそが鷹山改革の仕上げであり、眼目であった。
「寛政以来、御治声高く、諸藩より来て、法を取る者(学びに来る者)多し」(『鷹山公遺跡録』)米沢藩の改革が幕府公認となったこともあって、多くが米沢を訪れる。しかしその関心は「利」に向けられたものだった。第三の改革が課題とした「義」は、深く沈潜させられたまま、幕末の動乱を経て「利」の追求そのものの近代をくぐり抜け、今に至る。本著の最後は《「富国」の政治課題化の始点に位置して、「富国安民」を追求した上杉鷹山の改革は、近代日本が採用した「富国強兵」の国家理想とは一線を画すものとして、現代の私たちに多くの問いを投げかけているのである。》いま鷹山公がおおいに着目されるとするならば、そのゆえんはいまだ行き着かぬ第三の改革の課題、「利」の先の「義」という課題にわれわれが直面させられているからなのではあるまいか。
◆ 藤沢周平『漆の実のみのる国』アマゾンレビュー(
鷹山公の実像に近づけた思いがする☆☆☆☆☆
一昨日(平成29年1月26日)が没後ちょうど20年、亡くなったその年5月の刊行、藤沢周平さんの絶筆である。当時連載されていた「文藝春秋」の編集者に渡された原稿用紙6枚が最後の第37章。場面はまず、隠退していた莅戸(のぞき)善政の再起用によってようやく本格的な藩政改革がその緒につこうとしている時、いまだ改革ならぬ寛政3年(1791)、鷹山公41歳。そして迎える最後の段、時は一挙に文政5年(1822)、鷹山公最晩年の72歳。原稿用紙にして残り2枚足らず、著者渾身の力を振り絞るようにして、『漆の実のみのる国』の書名に込めた思いの一端が明かされる。決して成功したのではない漆の栽培がなぜ書名となったのか、不審に思いつつ読み進めてきた読者に、余韻を残して「(完)」となる。
あと僅かで読み終えると思うともったいない、そんな思いの第36章、読みつつふと異和が走る一文に行きあたった。莅戸善政(九郎兵衛)が鷹山公に語りかける。《「・・・憂慮すべきことは、暮らしの助けにはじめた商売が、金儲けのたのしみに変わりつつあるということではないでしょうか。・・・」》この箇所を読んで私を過(よぎ)ったのは、「商売がたのしみになったら最高。それこそ活力の源泉」の思いだった。しかもそれは「金儲け」の介在があればこそ生まれる活力であり、そのエートス(行為基盤)こそが近代の産業社会を発展せしめたものではなかったか。しかし、鷹山公の応えはあくまで莅戸の憂慮に沿っている。《「国力の衰微のせいとはいえ、容易ならぬ事態に立ちいたったものだの、九郎兵衛」》(下263p)。その後近代を経て今に至る感覚からすれば、時代の根底をなしてきた活力の源泉を否定したことになる。
この場面は、藁科立遠(わらしなりゅうえん)が善政に提出した意見書『管見談』をめぐっての対話である。上巻第7章に『管見談』からの引用がある。《「当世の人、役儀を望むは忠義の志にあらずただ利を営まんがためなり。世の事に立身出世を望むも竈(かまど)にぎはしたきが故なりといふあさましき言葉もあり。ただただほしきものは金銭にて、何をもってわが家を利し、何をもってわが身を利するかをねがってそれのみに肝胆を砕き、利を見ては人の痛み、世の恵みを顧みず、乃至は厳刑を恐れざるに至れり。礼儀廉恥を絶たんとして士風の頽廃すでに極まれり」》(上42-43p)「管見談』は、終章で描かれる寛政3年(1791)の前年に提出されたものである。著者に『管見談』への共感があることは明らかだ。善政の子政以(まさもち)に「九郎兵衛は元気か」と訊ねた時、「暮らしが貧しいと、かえって身体にはよいように思われます」(172p)と答えさせているが、著者にとって「求利」はあくまで二義的である。
藤沢周平が描こうとしたのは、後世評価が定まった「明君」としての成功物語ではない。行きつ戻りつ煩悶しつつの藩政改革であった。そこに見えてくるのが、臣とともに厳しい藩政に取組む等身大の鷹山公だった。徹底した一次資料の読み込み、現地取材がその背景にはある。鷹山公の実像に近づけた思いがする。
◆ 小関悠一郎『上杉鷹山と米沢』アマゾンレビュー(
逞しい鷹山公に出会えてうれしい☆☆☆☆☆
上杉鷹山公の実像に迫る好著です。私には以下二点、目からウロコでした。
一つは、鷹山公がなぜ34歳にして隠退を決意したのかの問題。これまでは、対幕府負担の多い藩主の地位から離れることで藩内改革に専念するための説があった。それに対して新たな視点が示される。鷹山公の隠退は天明4年(1784)、その2年前公とともに殖産政策を推進してきた竹股当綱の失脚がある。著者はその背景に、竹股が中心になって推進してきた「国を富まし、民を安んずるのは、地の利を尽くすこと」とする政策への反発を見る。
《注目されるのは、藁科(松伯)の次のような批判だ。”先年お上にて田を耕作し、菜蔬を売り、陶器を焼いて、縮を仕入れ、火打石から蕨ゼンマイまで販売して、専ら「興利の政」を行われた。このため、公儀(米沢藩)ですら藩の増収・利益を追求しているではないかとして、金融・商業に携わって利益をあげようとする武士が続出し、公然として営利を恥じない事になってしまったというのである。・・・「地の利を尽くす」をスローガンに「聖人の道」の実践という位置づけのもとに殖産政策を実施した明和・安永改革も、早期の藩財政再建が不可能な中、社会秩序の混乱を増長する「興利の政」と見なされ、行き詰まることになったのだ。》(57-58p)この風潮を改めるための統治体制・人事一新、《それを最も円滑に行いうるのは、藩主の代替わりだったであろう。》(58p)そうして公は、《財政再建を進めながら「風俗」の改革を図るという難題》(62p)に取組んでゆくことになる。
もう一つは、米沢藩政改革の根底にあった思想は「聖人」的儒学思想ではなく、まずもって「兵学」の思想ではなかったかということ。兵学における「詭道」について、《道理を説き聞かせても理解しない「愚民」を思いのままに「操作」するために、自身が信じてもいない鬼神や占いを利用したり、自己の真意とは異なる言動を演技・偽装することを容認するのである。こうした「詭道」の考え方は、理知的な道徳や君主の誠意・徳による教化によって人びとを正しい方向に導こうとする儒学・朱子学とは決定的に異なる》とし、《このような考え方は兵学と儒学の経済論にも鮮やかな対照をもたらす。低次の欲望を抑制・克服して徳を慎み、自己形成を図る儒学の経済論がおおむね倹約論を基調としたのに対して、兵学者は行動の原動力としての欲望解放論に立ち、積極的な経済策を説いた》(92p)のだという。それがまた鷹山公隠退の理由に結びつく。
以上2点、私にとって新鮮な視点だった。著者はさらに踏み込み、太宰春台の『産語』に至る。『産語』は、「どれほど自分の心身を修めても、国家を治める方法を知らなければ全く無益である」とする現実的経世論である。《万民の経済生活の安定こそが富国実現ひいては秩序道徳につながる》(99p)。兵学と儒学の止揚である。米沢藩改革の標語「地の利を尽くす」の思想の基もこの『産語』に在る。米沢市立米沢図書館所蔵の『産語』の解《「稽古堂蔵書」印があり、鷹山の書斎に置かれた書物。本文の欄外には墨と朱の書入れが見られるが、鷹山が勉強して書入れたものか。》、たしかに鷹山公愛読の書であったにちがいない。
著者は《師の細井平洲が説いた折衷学的学問方法を生涯一貫して尊重しつつも、儒学界のの潮流に対して相当に敏感だった》(104p)鷹山公の思想の進化を見据えつつ、米沢藩政改革の理論的背景をも明らかにした。鷹山公は最初から聖人たらんとしたわけではない。藩主就任以前ではあるが、13歳にして竹股当綱らによる森平右衛門誅殺に直面し、17歳、藩主となっては多くの改革策を打ち出しつつもその実りは遠く、23歳には七家騒動の解決を迫られる。そこには公なりの七転八倒があったにちがいない。《理知的な道徳や君主の誠意・徳による教化によって人びとを正しい方向に導こうとする儒学・朱子学とは決定的に異なる》「兵学」的思想がバックボーンにあったであろうことに納得する。逞しい鷹山公に出会えた気がしてうれしい。
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来年は鷹山公没後200年です。
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