『上杉鷹山 』(小関悠一郎)を読む(4)第三の改革② [上杉鷹山]
寝入り端の地震でした。もっと夜中かと思って目覚めたら11時過ぎたばかりでした。この辺、震度5弱の報道でしたがその後4に訂正されたようです。0時過ぎの段階では南陽市に被害確認はないそうです。(白岩市長のFB→https://www.facebook.com/takao.shiraiwa/posts/2075569539252444 ) 仕事場の筒状の紙や布が倒れていましたが、ゼンマイの柱時計は無事動いています。福島で見られた発光現象、私も直後のニュースで見ました。→https://twitter.com/JC1oAxgs4D6D3kc/status/1360632657034452992
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第三の改革①のつづきです。
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《寛政の改革では、・・・農民の経済的安定を第一とした領民支配緩和策を次々と打ち出していた。・・・ところが、民心には、年貢が納められなくとも何とかなるという風潮に染まってしまっている。もちろん経済的弱者(「貧民」)の場合は年貢免除も仕方がないように思えるが、それを許してしまえば、一人から村全体へ、一村から他村へと免除要求が広がっていくことになる。年貢未納は決して許さないという姿勢で取立に臨む方が、かえって民のためにもいいのではないか‥‥。》(194p)この課題に政以はどう応えたか。《領内の民は、一人として「御国民」でない者はいない。以後も長く「御国民」であり続ける者に対して、わずか一年の年貢の収量を増やそうと、翌年からの貧困を顧みずに無理やり取り立てて納入させるのは、「小利大損」である。そればかりか、「民の父母」として子である領民を愛すべき人君の仁心に背くものである。「天」は、民の利益となりくらしがよくなるようにと国主邦君を立てられたのである。どうして「民利」を奪い掠め取ることがあっていいだろうか。(『子愛篇』)》(169p)鷹山公の「伝国の辞」の基調をなす、「民は国の本」という「民本」の思想である。では、それを領民に周知浸透させるにはどうするか。「中間に処する農官の処置は甚だ難しき事」である。《農民が「力田」に向かうように仕向けることこそ、民政の最重要課題なのだ。農官による指導により、農民の「風俗」を労働集約的なものに移し変えることで、米を中心とする農業生産額をあげようではないか。(『冬田農談』)》(171p)そのためには上からの強制ではなく、農民自身の中からインセンティブを生まねばならぬ。《「富国安民」を実現しようとすれば、「稼ぎ働かねばならぬように鼓舞扇動」し。「計略を以て識らず識らず我と我が身を稼ぎ働かしめるの術」が必要というのが、莅戸政以の改革構想の基本であった。》(172p)
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この構想がどう具体化されていったか、その貴重な記録が、わが北条郷郷村出役北村孫四郎の「日記」と『北条郷農家寒造之弁』である。
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『日本農書全集』第十八巻(農山漁村文化協会 昭58)に、米沢藩士今成吉四郎の『農事常語』等とともに収録されています。↓口絵ページです。
なぜ「寒造」かを説く「まえがき」がいい。身につまされる。《寒造りとは大寒の時期に醸造した酒のことであり、夏の酷暑の日々でも変質して味や香りが悪くなることはない。・・・草木は真冬に芽ぐみ、春を待っていっせいに芽を吹くのだから、百姓もまた意志を強くして、冬の間に翌年の農作業の計画を練り上げておかなければならない。それなのに年の暮れも押し迫ってから、はじめて長かった一年をうかうか過ごしたことを思い出し、大いに反省して翌年の心がまえをしようと思うけれども、まためぐってくる快い春の陽ざしにに気がゆるみ、いつの間にか手足にのうのうと楽をさせ、盆になればたらふく食い、その上さらに迎え酒をするという持病がまたぞろ起こり、魚売りの声には耳ざといが、朝早く飛んでゆくからすの声を聞くこともなく寝ている日もあるにちがいない。これこそまさに寒造りをおろそかにした見本ではあるまいか。このことを考えて農民は本年の寒中には心を入れかえて、翌年こそはふらふらせずに仕事に精を出し、節約に心がけて安定した暮らしをしたいと願うのである。・・・文化元年十一月末日》
50石取の馬廻組北村孫四郎(1764-1833)は記録方を務め、和歌に通じて門人を持つほどだったという。それゆえの筆力か。以前10年ほど漆山村に住んでいたこともあって、文化元年(1804)二月に北条郷の郷村出役に任命される。「漆山村は我が十とせの古郷に候」「百姓の仕事も渡世もここにて見覚え」た。その日記にみると、馬に乗ってのことなのだろうが、まずマメによく歩き回っていろんな人と交流していた。地元なので、走り回るその距離感がよくわかる。『北条郷農家寒造之弁』、一通り現代語訳に目を通したが、当時わが家もあちこちに畑を持ち、藍や茶を育て蚕も飼っていたという私の祖父(明治22年生)の時代と地つづきで、当時の暮らしが生き生きとイメージできる。全集集録の『農事常語』を書いた米沢藩士今成吉四郎(1746-1806)も郷村出役だった。今成は、「農官の人はよく誘い導いて稼ぎ稼がせ、家々戸々を押して富ましめたきものに候」といい、農官・村役人を教導の担い手として、全農民に労働に力を注ぐような「風俗」の醸成を図る役割を果たす。
小関著に「金山村の立て直しと桑栽培」についての項がある。北条郷の中でも難村だった金山村では、3000貫文の田地が他村に売り渡していた。それを村役たちが桑・漆の栽培によって資金を捻出し買い戻す手立てを考える。高橋嘉門を中心とする村役が孫四郎と相談して、藩管理の林の一部の下げ渡しを受け、その地に桑・漆を栽培して1200貫文の資金を得、それを元手に文化元年、6反9畝の田地を買い戻し、土地を失った貧しい人たちに分け与えた。藩は「彼是一村心を合わせ、難渋の者を引き立て候組み立ていたし、一段なる儀」として村役たちを表彰する。金山村ではその後も、福島伊達から桑木の苗木を買い入れるなどの取り組みをつづけることになる。《高橋嘉門は、多くの百姓が田畑を手放さざるを得ない経済状況に置かれて、村内での格差が急激に拡大しつつある状況が、有力農民を含めた村全体に悪影響を及ぼすものだと考えていた。そこで、村を挙げて米以外の原料生産を盛んにして資金を得、収入減に苦しむ下層の百姓たちに再び耕地を分与することで、状況を克服しようと志向したのである。村の百姓たちは階層の上下を問わず、農家経営の基礎として、村の全百姓が安定的に耕地を所持することを切実に求めていた。》(189-190p)(この金山地区に今年、飛騨福来心理学研究所(六次元会)によって、髙橋宥明上人と長南年恵刀自を顕彰する神社が龍口神社があった場所に建立されます。室町期以来髙橋七兵衛家が中心になって守ってきた龍口神社は、熊野大社末社厳島神社に合祀されました。→https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2020-10-18)
『上杉鷹山』を読む(2)に記した「農家伍什組合掟書屏風」https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2017-02-26が享和元年(1801)、孫四郎が郷村出役就任が3年後、この「伍什組合」を重視する。《「伍什組合之被仰出の大意は、個々の百姓が安定したくらしを送れるようにというもので‥‥、互いに助け合い、常々睦まじく交わって、家族のように苦楽を共にせよということである。そうであるのに、同業者が増えると自分の利益にならない、などと言って、他人の足を引っ張ろうとする者は、不人情であるばかりか、「国賊」というべき者である」。・・・自らの利害関心を優先して地域内の対立を引き起こすような行動をとる者を「国賊」とまで強く否定したのである。》(197-198p)階級対立を煽り「自らの利害関心優先」の近代感覚からすると「封建的」となるのだろうか。内村鑑三の鷹山公評価を思う。《徳がありさえすれば、制度は助けになるどころか、むしろ妨げになるのだ。・・・代議制は改善された警察機構 のようなものだ。ごろつきやならず者はそれで充分に抑えられるが、警察官がどんなに大勢集まっても、一人の聖人、一人の英雄に代わることはできない》《本質において、国は大きな家族だった。・・・封建制が完璧な形をとれば、これ以上理想的な政治形態はない》(『代表的日本人』上杉鷹山(序))
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