『上杉鷹山 』(小関悠一郎)を読む(1)第一の改革」のつづき)

第二の改革のリーダーは莅戸善政(1735-1803)。善政は鷹山公に最も寄り添った家臣だったように思える。


2016年の12月に上杉博物館で、著者の「上杉鷹山の改革と学び—『富国安民』論とはなにか—」と題する講演を聴きに行った。その時開催されていた開館15周年記念展「上杉鷹山と学びの時代」で、義政の鷹山公に対する「建言書」を知って感銘を受けた。→「若き鷹山公の素顔が見えた!」https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2016-12-22



このあと、著者の前著『上杉鷹山と米沢』を読み、つぎに藤沢周平の『漆の実のみのる国』を読むことになる。→「藤沢周平著「漆の実のみのる国」を読んで」https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2017-01-28


さらに今回、七家騒動後の鷹山公に気の緩みを見た善政が、厳しく意見したことを知った。善政にとってこの騒動は「死するの義か不死の義に当たるか‥‥定めがたく」、「存亡今日に迫り、後日を期しがたき身上」にまで追い込まれ、遺書を認めるまでの緊迫した体験であった。《莅戸はいう。近習等との会話は「鳥と馬との御評判」や無駄話ばかりで「御心はまり」が見られない。また、諮問などによって諸役人の士気を鼓舞すべきだが、それも十分行っていない。細井平洲の「講談」(講義)を聞いても「今日の御政事に御引き合わせの御論」もない。さらに、鷹山の身なりは「江戸風」の「色男」の風体に見える。これでは「心ある諸士」の視線が気がかりである‥。》(117p)この時、安永三(1774)年三月、鷹山公24歳、善政40歳。さらに4ヶ月後の七月、再度の意見。《「先代から譲られたことだとはいえ、家督以来毎年「半知借上」が続いているではありませんか。‥何をもって彼らに報いるというのでしょう。‥藩財政の運営はどうお考えなのでしょうか。‥家臣は年来の俸禄借上げで疲弊し、藩内外の金主は上杉家のために苦しんでいるのです。》(118p)さらに七家騒動について、《「重臣たちを処罰した上で行う政治に邪(よこしま)なことがあれば、何の面目あって国人〔藩士〕の前に立つことができましょうか」》と、七重臣処罰の重みを深く自覚することを迫り、慢心を厳しく戒める。《君主の好き嫌いは多くの人の目に止まり、影響を及ぼすものですから、いくら「孝悌仁譲」を勧めるお触れを出しても、お上が老いた者をいたわらず目上の者を敬わず、思いやりや謙譲の心を持たなければ、どうして下々の者がそれを行いましょうか。/御国民が君主を仰ぎ尊ぶのは、民のために綿衣・一汁一菜を用い、無用な物好きをせず、贅沢を制するがゆえではありませんか。「再上治憲公書案」》(120p)


善政の鷹山公への厳しさは、善政なりの「明君」像があってのことだった。善政が残した文書には、多くの優れたとされる大名などの言行や逸話を書き記したものが種々あるという。天明五(1785)年、鷹山公35歳にして隠退、前藩主重定の子治広に家督を譲る。そして鷹山公の実子顕孝が治広の養子となって世子(世嗣ぎ)の立場となる。善政はこの機にあたり、《上杉謙信以下代々の上杉家当主の言行を意識し、謙信の事績十三条を記録していた莅戸は、天明七年、この顕孝に対して、父鷹山の徳に薫陶をうけ、継承をしてほしいと鷹山の言行録の執筆を決意した。》(127p)これが寛政元(1789)年顕孝に献上した『翹楚篇』。顕孝は寛政6年18歳にして夭折、しかしこの書は広く読まれ、鷹山明君像の確立に大きな役割を果たすことになる。