『上杉鷹山 』(小関悠一郎)を読む(3)第三の改革① [上杉鷹山]
第三の改革をリードするのは、莅戸善政の嫡子莅戸政以(1760-1816)。父善政の死後、奉行等の職をそっくり引き継いだ政以は、文化二年(1805)の藩政意見書でこう述べる。《安逸に流れやすい風潮を一変し、民の習俗を勤勉なものに移行させることは、「治国安民」実現の基礎であり、時勢の急務である。‥‥道楽・不稼ぎを何よりも恥ずかしいことだと思うような習俗に移行させたいものである。》(159p)この方向は藩民意識の大転回を意味する。《こうして広がりはじめた通俗道徳は、家の存続という願いを込めた民衆の大きな努力を引き出す一方で、個々の家の経済的浮沈の原因を、領主の政策ではなく、道徳的な自己確立の成否(個々人の善行や怠惰など)に求める自己責任論的な社会意識を生み出していくことにもなる。》(160p)もう藩の改革は軌道に乗った証左とも言える。米沢藩の場合、第一の改革、第二の改革の成果あればこそ、意識はひとりひとりの生き様に向けられる。自己意識の目覚め、近代への準備が整いつつあるということか。きっと、この流れの中から「置賜発アジア主義」も生まれたのだ。


《十八世紀半ば以降は、「風俗」の立て直しが政治・社会の大きな課題と見なされた時代である。・・・ここで「風俗」というのは、現在の一般的用法とは異なり、衣食住のくらし・働き方・家族関係・行動規範・倫理観などを包括的に表現した言葉だ。・・・江戸時代の人々は、生活・行動様式の総体とそのモラルを「風俗」と呼んだのである。・・・江戸時代後半の日本でも、未来のため、いかなるモラル・生活スタイルを定着させていくべきか、その実現のためどう働きかけていけばよいのか、「風俗」のあり方が深刻に問われ始めていたのである。》(161-162p)このことが課題となった中での「第三の改革」であった。(この項つづく)
【今朝の日経書評欄】
《名君の裏には名臣の支えがあることを教えてくれる。》
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