昨日の〈『列島祝祭論』を読む(1)〉の題を「神懸かり」とした。文中「憑依(ひょうい)」の言葉も出て、何かオドロオドロしく思えてしまうかもしれないがそうではない。以前「古道」の巻頭言を転載した記事があった→神道天行居的https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2013-10-04天行居で主唱しつつある古神道は人々の生活を神秘化せんとするものでもなく宗教化せんとするものでもない、『苦痛なしに窮屈な思ひをせずに愉快に自然的に生活を倫理化せんとする』にある。・・・われわれの思想運動はかくべつ新発明のものでもなく、人類の発生と倶にあるもので空気や水のやうなものであるけれども、今の多くの人達の生活は空気や水を忘れた生活である。だから単にその空気や水の存在を確認せしめようとするだけの極めて普通な平凡な運動である。》要するに「手を合わせる気持ち」の延長上と考えればいい。「神」対「われ」。そこでは「人と人との間のわれ」は捨象される。したがって「評価意識」から解放されている。mespesadoさんの金言に通ずる→mespesadoさん講義(108)金言!https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2020-08-10《「外から」の評価なんてハッキリ言ってどうでもよい。要は自分の真の本心が、自分のやっている行動に納得しているかどうか。それがすべて・・・そういう世界では、下らん競争も嫉妬も無い。ただ、成果だけがものすごく伸びていく。》

「神懸かり」を思いつつ、「物実(ものざね)」という言葉がしきりに浮かんだ。天照大御神は、速須佐之男命に、「この、後に生まれた五柱の男子は、私の持ち物を物実として成りました。ですから、当然私の子です。先に生まれた三柱の女子は、あなたの持ち物を物実として成りました。ですから、つまりあなたの子です」と言って、生まれてきた子たちを区別した。》と古事記にあり「モノのタネ」の意。何もないところからパッと出現するのではなく、タネがある。『列島祝祭論』の文中、出羽三山修験においては「神懸かり」は「湯殿山」という物実によってもたらされていること。あるいは「浄身鎮魂」も「太陽」という物実に頼るのがいちばん手っ取り早い→浄身鎮魂法と太陽凝視―イワトビラキhttps://oshosina.blog.ss-blog.jp/2014-02-04。現実に生きているこの世界には「神」と「人」をつなぐモノがちゃんと用意されているということなのです。このことはあらためてよく考えてみたい。

今日の以下の文章は昨日の後編、「第三の道」に気づかされたことです。亀さんに教えていただいた天童竺丸さんのツラン関連文章群を読ませていただいたことによります→http://michi01.com/tendoh/kantougen_index.html。とりわけこの中の今岡十一郎「ツラン民族の文明的使命」がありがたかったです。「第三の道」というカテゴリーをつくりました。

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