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安藤礼二『列島祝祭論』を読む(1)神懸かり [本]

列島祝祭論.jpg安藤礼二『列島祝祭論』(作品社 2019)、半年ぐらい前から手近に置いて何度も行ったり来たりしてきたが、まだまだ消化しきれない。ある会の会長を務める高校の同級生から、来春発行の年刊誌に書いてみないかと言われて即座に浮かんだのがこの本だった。いまの段階で一度整理してみなければ、と思っていたところだったので。書く出だしは想像ついていたのだが、途中思いがけない方向に展開することになって驚いた。これまでは投稿寄稿の文章は普通掲載誌が出回るようになってからここに上げることにしているのだが、今回はすぐにもここに載せておきたい気持ちになった。削ったり文体を変えたりしたものを載せておきます。

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安藤礼二『列島祝祭論』を読む


《来たるべき祝祭学が主題とする「憑依」を中核に据えた社会の探求は、いわゆるシャマニズム文化圏全域を、その対象に含む。》(17p)この一文に象徴されるこの書の深さと広さ、心躍らせつつその世界を覗き込んだ。

読みつつ葦津珍彦の言葉が思い起こされた。《神懸りの神の啓示によって、一大事を決するのが古神道だった。だが奈良平安のころから段々とそれが乏しくなり、近世にはそれがなくなったとすれば、古神道の本質は、すでに十世紀も前に亡び去ってしまっているのではないか。神の意思のままに信じ、その信によって大事を決するのが神道ではないか。それなのに、神懸りなどはないものと決めて、神前では、人知のみによって思想しつづけ、ただ人間の側から神々に対して一方通行で祈っているとすれば、それは、ただ独りよがりの合理的人間主義で、本来の神道ではあるまい。》(葦津和彦「古神道と近世国学神道」『神国の民の心』 島津書房 昭61所収)

この思いに照応するのが次の箇所、《明治維新とその後に続いた神道の道徳化、いわゆる「国家神道」化によって、宗教としての神道の中核に位置づけられる「神憑り」は禁止され、同時に神仏習合的な要素を色濃くもっていた民間の芸能も禁止された。さらにはそれら、宗教にして芸能を担っていた修験の徒たちも強制的に解散させられた。神官は世襲ではなく、国家から任命されることとなった。近代国民国家の主権者とされた「天皇」の一族を唯一の例外として、神に仕える者たちはすべて「宗教」から排除されてしまった。》(23p)

時代が下るにつれ、神事からその中核が骨抜きされていく様がイメージされる。ただ日本にとって、少なくとも「天皇」においては、本気の「祈り(神との通い合い)」が脈々と今に伝えられていることがありがたい。そこに光を当てたのが、折口信夫、《折口古代学は大嘗祭論(「髯籠の話」)としてはじまり、大嘗祭論(「大嘗祭の本義」)として一つの完成を迎える。大嘗祭という祝祭において、神と人とは、ほとんど合一する(「大嘗祭に於ける神と人との境は、間一髪を容れない程」)、あるいは、・・・折口の表現を用いれば、「神人交感」するのである。》(34p)

天皇としての最重要祭事(神事)たる大嘗祭、その背景には、民レベルの「祈り・神人交感」の広く深い基層がある。折口の言葉、《「日本には、国家意識のまだ確定しないほどの大昔から続いて、沢山の神人団体が漂浪して居ました。一種の宗教的呪力を持って諸国を遊行し、其力で村々を幸福にもし、呪いもした、後の山伏団体の様なもので、彼等は時代々々の色合を受け、当世の宗教に近づいて行った為に、多少の変化は見せて居ますが、本来の精神は、殆んど変らないで、かなりの後までも、芸能と呪力を持って、旅を続けて居たのです。」》(44p)

民レベルの基層のひとつ、山伏による「修験道」は、祈り・神人交感の「行」を「業」とする。その「場」としての出羽三山、とりわけ大日如来の体現とされる湯殿山に目が向けられる。以下の文、湯殿山に行かれたことのある方は実感として受けとめることができるにちがいない。

《生命をもった石、生命であり非生命であるとともに、生命と非生命を同時に生み出す「もの」。・・・その生きた石こそが、曼荼羅の中心に位置する大日如来・・・宇宙の中心に位置し、宇宙そのものを生み出す、生命をもった巨大な石としての胎児。・・・曼荼羅としての「山」の中心には、無垢なる胎児としての「大日」は、大地の底から、火と水が一つに融け合った「湯」を噴き上げ、森羅万象あらゆるものの生命を生み出し、生命を更新している。無限の光を発出する太陽であり、無限の生命を発生させる泉である。》(189-190p)

これにつづくのが、著者にとっての湯殿山体験の意味付け。長いが引用したい。

《その「もの」の上に立ったとき、如来蔵としての人間は、如来蔵としての曼荼羅と一体化する。つまりは「合一」を遂げるのである。そのとき、いったいどのような事態が生起するのか。生命とそれを取り巻く環境、人間と行、精神と物質、「私」の内側と外側、「大地」の内側と外側といった区別は一切消滅してしまう。「私」の内側にあるものは外側にあふれ出し、「私」の外側にあるものは内側に殺到する。湯殿山の「石」が体現しているように、生命と非生命の区別さえ消滅してしまう。そうした体験を、修験道の行者たちは「神懸かり」(憑依)と名づけた。「神懸かり」とは、「私」とそれを取り巻く「自然」の区別が消滅し、すべてが神的なものへと変容してしまうような体験、神即自然にして自然即神の体験である。その瞬間、生命と非生命の両者を貫いて流れる「力」が解放される。その「力」はあらゆるものに生命を賦与して独自の形態を与えるとともに、あらゆる生命の形態を崩壊させ、変容させてしまう(「死」とは変容のとる一つの過程に過ぎない)。その「力」、過去と未来を貫いて流れ、すべてのものに形を与えるとともにその形を滅ぼす「力」を、修験道の行者たちは「霊」(「霊魂」)と名づけた。/「神懸かり」は「霊魂」を解放する。》(190p)

結論。「祭り」→「神懸かり」→「霊魂の解放」。よって、「祭り」とは「霊魂の解放」である。(つづく)


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ともあれ、《「祭り」とは「霊魂の解放」である》というひとつの命題に行き着いたところで後半へ。この命題についての展開はこれからの課題。これを頭に置いて、あらためてこの著を読み直してみたい。


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めい

読売新聞書評https://www.yomiuri.co.jp/culture/book/review/20191130-OYT8T50108/
列島祝祭論…安藤礼二著 作品社 2600円
2019/12/01 05:00
日常と異界が生む権威

評・山内志朗(倫理学者、慶応大教授)
◇あんどう・れいじ=1967年生まれ。文芸評論家。多摩美大教授。2015年『折口信夫』でサントリー学芸賞。

 本書は「翁」の変身から話が始まる。世阿弥の能の中で「翁」が白い面と黒い面という別々の姿で現れ、厳粛と滑稽、静と動という二つの相対立する要素を演じながら、荒々しい変身を遂げる様子が記される。

 謎解きが始まる。変身の思想的背景に天台本覚思想があるという。草木国土悉皆成仏という自然物にも仏性が備わっているという思想だ。

 この系譜こそ、念仏踊りで著名な一遍上人から、後醍醐天皇を通じて、現代の大嘗祭につながる道筋だ。それが列島祝祭論として語られる。

 日常と異界の交錯、自然と人間界の交流、王権と権力の生成が豊かに語られる。境界を越えることは新生と誕生を引き起こす。

 著者はそこに祝祭の起源があると言う。祝祭とは、聖なる山と俗なる平地の中間において、両者の境界を越えるときに、権威を生ぜしめる儀礼なのだ。儀式の中心にあり、越境を実行する者が神的権威を帯びる。

 祝祭は、日本の各地に祭りや行事として数多く残っている。異形の山人、鬼や荒神、妖怪が多数登場する。非日常的な存在者が現れて、力が生成するのである。

 異界と日常世界を媒介し、結びつける専門集団が存在した。放浪する乞食、猿楽の演者など、芸能者である。山伏、修験者がその任を担ったこともある。

 最も奥深い山中に呪術者達が多数集まったことの理由も分かる。異界の最奥部において、自然の諸力、自然の荒ぶる力を身に着けた修行者達こそ、境界における異界との交流に関わるメディアだったのだ。

 能、猿楽、修験道、真言密教、天台宗、念仏宗など全国各地を縦横無尽に駆け回りながら、古代から現代まで包括的に論述が進む。文化論としても民俗学としても面白い。

 光り輝く極楽と王権の誕生の姿こそ、列島の祝祭の頂点である。私は夢幻性に充ちた日本思想史の本と読んだ。巨大な日本形而上学が展開される。途方もない本だ。読むべし。

by めい (2021-03-06 11:18) 

めい

じっくり読んでみたいサイトに出会いました。→Far East Alexandria
https://far-east-alexandria.com/
《鬼道に連なる伊勢神道で重視されたのは、
神に通じる姿勢と清浄さのようです。》
(著書『豊橋三大祭り』https://onedrive.live.com/?authkey=%21ANhbt4Ob2edSf98&cid=789EF1235009D08C&id=789EF1235009D08C%212257&parId=789EF1235009D08C%21841&o=OneUp

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ええじゃないかの深層
https://far-east-alexandria.com/post-1824/

2021/4/18 ええじゃないか, 三遠, 三遠式銅鐸, 徐福, 神道, 鬼の都

「ええじゃないか」について
色々と書き込んできましたが、
今までの話は前振りレベルです。

ここからの話が核心的な本番であり、
同時代に大本教の開祖・出口なおが
神がかって艮の金神を復権した以上に
日本史の根幹に関わる要素があります。

「ええじゃないか」はこれが書けないので
取り扱う気の無かったテーマでしたが、
オファーが来たので出せるところまで出そうと
ここまで書いてきてしまいました。

色々とクリアしないといけない問題があり、
ある段階までいかないと厳しいので、
ブログでの情報の垂れ流しはNGですが、
関係者には実地で断片的に伝えています。

様々なところの利害関係が出る話だと、
何かと運営が難しいですね。

本当は三遠式銅鐸の本の出版していれば
もう少し楽に色々と出来ているのですが、
色々と遅滞が生じている状況です。

いずれは出すかも知れない情報ですが、
現状ではより深い領域があると言う事だけ
認識しておいて頂ければ十分かと。

こう言う時代的な問題に対応したい方が
集まれる場所が欲しいところですね。
メルマガでも人数が集まってくれば、
目ぼしい人を呼んで講演会などを
やってみるのも面白そうです。

未確認情報ですが浜松にGoogle本社が
移転してくると言う話があります。
意外と海外の方が詳しいのか、
当の日本人が遅れを取っていたら
主体性に欠けた恥ずかしい話になります。

浜名湖周辺はトヨタを初め優良企業が多く、
この深層を理解した動きなのでしょうか。

儒教では政治のみならず経営も含めて
道理に沿った運営を主眼としていますが、
聖地としての運営は海外主導ではなく、
日本人の仕事としての責任が出ますね。

勝ち馬に乗ろうと周囲の動向を見て
美味しい所だけ持って行くものの、
不利になれば簡単に責任放棄するのは、
流石に人としてさもしい話でしょう。

表では人の事を考えている話をしつつ、
裏で責任問題を揉み消しているような
無責任な所に任せる訳にもいきません。

地域振興ですら自分はやる事をしないのに
人にあれをしろこれをしろと説教し、
自らの責任になると逃げる人は多いです。

聖地も虎の威を借る狐のオモチャではなく、
争論賛成各論反対で都合の悪い事を
押し付け会うケースが多いですが、
そろそろツケが顕在化してきそうですね。

よくも裏でそんな事をしながら
神を拝んで御教えを垂れられるなと
思われるケースは結構見かけますが、
鬼道に連なる伊勢神道で重視されたのは、
神に通じる姿勢と清浄さのようです。

どの様な姿勢で物事に関わるかは、
具体的に何かを行う以前の根幹として
大きな影響を及ぼすものなので、
武術にも姿勢を練る修行があり、
朱子学で居敬を重視するのも同義です。

この周辺さえクリア出来ている人なら
出せる情報はかなりありますが、
やはり一番重要なのは人の問題ですね。

新たな時代を造り出す気宇と気概こそ、
今の時代に必要なものでないでしょうか。

by めい (2021-06-16 04:03) 

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