「タイムカプセル理論」(三都住) [第三の道]
昨日の「「邪悪が善意を飲み込もうとしているのではないか」(三都住)」のつづきです。
「古風」の由来→サンパウロ日本人街での体験→「タイムカプセル理論」。そしてそのあと、《「タイムカプセル理論」は、もっと長い時間軸において日本列島および日本人にも当てはまる》。そのシンボルがきっと「天皇」という御存在です。そこであらためて思います。
猿都瑠さんの言葉です。《祭祀を行う事は天皇しか出来ないわけではないのだ/これからは人類の一人一人が天皇が独占していた祭祀を行っていくのである。一人一人が神仏と繋がる。そして成仏する。》この言葉の出現、そしてそれに触発された放知技板での議論の展開は目からウロコでした。→https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2022-04-05
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安藤礼二『列島祝祭論』にはこうありました。《明治維新とその後に続いた神道の道徳化、いわゆる「国家神道」化によって、宗教としての神道の中核に位置づけられる「神憑り」は禁止され、同時に神仏習合的な要素を色濃くもっていた民間の芸能も禁止された。さらにはそれら、宗教にして芸能を担っていた修験の徒たちも強制的に解散させられた。神官は世襲ではなく、国家から任命されることとなった。近代国民国家の主権者とされた「天皇」の一族を唯一の例外として、神に仕える者たちはすべて「宗教」から排除されてしまった。》(https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2020-12-29-1)ここを元に戻すのです。
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887:三都住 :2022/04/15 (Fri) 23:50:54
>>877に関連して。
ロシアや東欧の女性の「古風」な感じがどこからくるのかということに関して、思い当たったことがある。
ブラジルのサンパウロに滞在していた時のこと。
そこにはリベルダーデという日本人街がある。街並みは日本の商店街みたい。住んでいるのも日本人。話されている言語も日本語。私が行った1990年代初頭はそんな感じだった(今は中国系や韓国系が席巻しているとか)。
まるっきり日本みたいなんだが、なんか違う。まず気付いたのが言葉の違い。折り目正しく丁寧な言葉遣い。外来語すなわちカタカナ言葉が少ない。そしてみんなお節介なほど親切だ。お金を盗られて文無しの私に、追い出すどころか当座のお金を貸してくれようとしたホテルの女将。私の話を聞いて貴重品を仕舞う腹巻きを手縫で作ってくれたスナックのママ。養生の仕方が悪いとプンプン怒る医者。
つまりそこは昔の、戦後アメリカの流儀や文化や洗脳教育やらが入ってくる前の、純粋な日本人が暮らすタイムカプセルのような街だった。
日本本土と長らく隔絶していたため、欧米型資本主義の価値観に染まらぬまま、以前と変わらぬ日本社会が継続していたのだ。
一方日本では、アメリカ通俗文化が礼賛され、ジーンズをはいても和服を着たことのない日本人が量産され、過去の日本は悪であると罪悪感を心に刻まれ、聞いたことのない横文字を多用する薄っぺらい人間が上に立ち、尊敬すらされるようになる。
・・・それはともかく、そのタイムマシンに乗ったような体験は、旧ソ連圏の女性たちに出会った時の感覚に似ていることに気がついた。
なんというか、自分のおばあちゃんの若い時に会っているような。
ソ連という、特異な体制が長く続いたわけだが、いわゆる西側社会との断絶があったために、互いの今が同期することがなかった。そのためいい意味で毒されずに済んでいたのだろう。
以前仕事で、小さな離島でクリニックを開いている東大卒の老医師を訪ねたことがある。彼曰く、本当に立派な、尊敬すべき日本人は「島にいる」という。これも、外部から隔絶された離島という、いわばタイムカプセルのような条件がなせる技ではないだろうか。
以上、以前から頭の片隅にありながらそれぞれが結びつくことがなかった事項が繋がったようなので、書き記した。
そして今、この名付けて「タイムカプセル理論」は、もっと長い時間軸において日本列島および日本人にも当てはまることにはたと思い至った。
>>877に関連して。
ロシアや東欧の女性の「古風」な感じがどこからくるのかということに関して、思い当たったことがある。
ブラジルのサンパウロに滞在していた時のこと。
そこにはリベルダーデという日本人街がある。街並みは日本の商店街みたい。住んでいるのも日本人。話されている言語も日本語。私が行った1990年代初頭はそんな感じだった(今は中国系や韓国系が席巻しているとか)。
まるっきり日本みたいなんだが、なんか違う。まず気付いたのが言葉の違い。折り目正しく丁寧な言葉遣い。外来語すなわちカタカナ言葉が少ない。そしてみんなお節介なほど親切だ。お金を盗られて文無しの私に、追い出すどころか当座のお金を貸してくれようとしたホテルの女将。私の話を聞いて貴重品を仕舞う腹巻きを手縫で作ってくれたスナックのママ。養生の仕方が悪いとプンプン怒る医者。
つまりそこは昔の、戦後アメリカの流儀や文化や洗脳教育やらが入ってくる前の、純粋な日本人が暮らすタイムカプセルのような街だった。
日本本土と長らく隔絶していたため、欧米型資本主義の価値観に染まらぬまま、以前と変わらぬ日本社会が継続していたのだ。
一方日本では、アメリカ通俗文化が礼賛され、ジーンズをはいても和服を着たことのない日本人が量産され、過去の日本は悪であると罪悪感を心に刻まれ、聞いたことのない横文字を多用する薄っぺらい人間が上に立ち、尊敬すらされるようになる。
・・・それはともかく、そのタイムマシンに乗ったような体験は、旧ソ連圏の女性たちに出会った時の感覚に似ていることに気がついた。
なんというか、自分のおばあちゃんの若い時に会っているような。
ソ連という、特異な体制が長く続いたわけだが、いわゆる西側社会との断絶があったために、互いの今が同期することがなかった。そのためいい意味で毒されずに済んでいたのだろう。
以前仕事で、小さな離島でクリニックを開いている東大卒の老医師を訪ねたことがある。彼曰く、本当に立派な、尊敬すべき日本人は「島にいる」という。これも、外部から隔絶された離島という、いわばタイムカプセルのような条件がなせる技ではないだろうか。
以上、以前から頭の片隅にありながらそれぞれが結びつくことがなかった事項が繋がったようなので、書き記した。
そして今、この名付けて「タイムカプセル理論」は、もっと長い時間軸において日本列島および日本人にも当てはまることにはたと思い至った。
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