◎大江氏系図
大江氏系図にはいろんなのがあるが、紹介する系図は馬野周二氏の「大江匡房と『闘戦経』」にあったもの。この系図、一般に言われるように維光の子として大江広元があるのと同時に、維光の妹の「女子」と点線でつながっていることが重要。あまり表に出ない事情がここに隠されている。実は大江広元は
大江姓に改めたのは晩年の建保4年(1216年)に陸奥守に任官した以後のこと、70歳近くまで中原広元だった。広元は維光の妹と藤原光能との間にできた子、「鎌倉殿の13人」のひとりである中原親能は実の兄、その兄によって頼朝側近に引き立てられる。妹は藤原光能と別れて中原広季の妻となるが、親能・広元の兄弟も広季の養子となって中原姓を名乗るようになった。功なり名を遂げた広元は「大江」の姓を継ぎたくてそれを得る。
そのために大江嫡流であるはずの大江弘忠の名が系図から消えた。この辺の裏の事情を解き明かしたのが、大江氏の子孫大江隻舟氏による
『大江廣元 改姓の謎』。長井時広も関わる説だが、ここではあえて踏み込まない。この時代、名を取るための血で血を洗う抗争があったということか。大河ドラマ「鎌倉殿の13人」もそうした時代が描かれるのだろう。
◎大江広元(1148-1125)
大江氏というとまず思い浮かぶのが、鎌倉幕府の草創を源頼朝を支えた大江広元です。そこで大江広元について知ることから始めたいと思います。 《平安末期から鎌倉前期にかけての日本における政治の激動を、広元ほどあざやかに一身に体現した人物は、多くはない。広元は、頼朝の祐筆にして無二の腹心となり、鎌倉幕府の初代公文所別当、ついで政所の初代別当の地位を得て、初期鎌倉幕府の行政実務の中心となった。有力御家人同士の激しい武力抗争が頻発した二代将軍頼家・三代将軍実朝の時代においても、将軍側近の立場を貫きながら、幕府の主導権を握りはじめた執権北条氏の一族との協調関係を強め、幕府宿老としての存在感を示し続けた。広元は、将軍専制体制から執権体制への幕府政治の道筋を固める上で極めて大きな役割を果たしたのであり、彼の活躍が、日本における武家政権の確立と長期にわたる存続の要因の一つとなったといっても、決して過言ではないだろう。》(上杉和彦『大江広元』) 貴族としては下級であったが、源頼朝が伊豆国で挙兵の治承4年(1180)から、寿永3年(1184)義仲に代わる頼朝復権に至る過程で鎌倉へ下向、頼朝側近として武士には不慣れな文書事務、政務を司る公文所改め政所別当職として、45年にわたり枢要の地位にあって頼朝−頼家−実朝−北条義時の代を支えた。源義経、源行家追捕(ついぶ)にあたり「守護・地頭」を設置の功により肥後国山本庄、平泉藤原氏を滅ぼす文治5年(1189)の奥州合戦の功により出羽国置賜郡、寒河江庄、建暦3年(1213)、泉親衡(信州飯山泉八家の始祖。その嫡流が宮内宮澤城主尾崎家。泉親平(親衡)以来の泉家代々を祀る和光神社が熊野大社にある。)の謀反がきっかけとなって侍所別当和田義盛排斥に至る和田合戦の功により武蔵国横山庄、相模国毛利庄、越後国佐橋庄、安芸国吉田庄を得る。 その他全国に所領多数。当時、広元より所領の多い人物はいないともいわれる。したがって大江家支流も多く、日本国内に何千万にも及ぶとも。(上田・寒河江・長井・那波・毛利・有富・海東・水谷・小坂・在原・左沢・古河・西目・柴橋・岩田・萩袋・白岩・上山・田総・長利・麻原・中馬・福原・藁科・高原・宮内・北小路・江・・・)
《日本における武家政権成立と長期にわたる存続は、かなりの部分を広元の事績に負っているといって良い。武家が、単なる戦闘集団であるにとどまらず、有能な文筆官僚を擁することではじめて安定的な政権の担い手になれることを、広元は身をもって示したといえるだろう。》(上杉和彦『大江広元』)
《北條九代記 卷第六 泰時仁政 付 大江廣元入道卒去
嘉禄二年(1125)六月に大江康元入道覺阿、卒去せらる。行年(かうねん)八十三。右大將賴朝卿より以來(このかた)、何事に付けても武家御政務の談合人(だんがふにん)なり。心、直(すなほ)にして欲をはぶき、智、深くして慮(おもんぱかり)、遠く、慈悲ありて、心志(しんし)猛(たけ)からず、末世の賢者と云はれし人なり。臨終に至るまで、心、更に正しく、老耄(らうもう)の氣(け)もなし。常にはさもなく見えたりしが、臨終には念佛高(たからか)に唱へ、西に向ひて手を合せつゝ、坐(ざ)しながら往生せらる。貴(たつと)かりける御事なり。相摸守時房、武蔵守泰時、二位禪尼を初め參(まゐら)せて、力を落し給ひ、貴賤、皆、惜まぬ人はなかりけり。法華堂に葬送して、故右大將賴朝卿の御墓(おんはか)の傍(かたはら)に埋(うづ)まれたり。數代多年の舊好(きうかう)、忠義廉讓の德用にや、大名小名、送(おくり)の人々、幾何(いくら)とも數知らず。諷經(ふぎん)の俗衆、巷(ちまた)に盈ちて、墓所の邊(あたり)に餘(あまれ)り、中陰の弔(とぶらひ)、武蔵守より營まる。愁傷の色を顯されけり。 》