◎寒河江源兵衛(牛之助 ?−1626)
 最上家の家臣(寒河江肥前の次男土佐)であったが、村山から大塚に移って伊達政宗に仕え、500石の知行を得ていた。政宗移封(1591)に際しては土佐病死、源兵衛幼少のためそのまま残り、長谷堂の戦い(1600)には上杉方で参戦。その後慶長14年(1609)から18年までかかって、添川地区の白川から大塚まで水を引く事業を担う(「大塚堀」)。『邑鑑』記載(1590年代)では2,029石の石高が、寛永15年(1638)の総検地では7,000石を超える。元和年中(1615−1624)には大塚堀から今泉村に分水、川西北部地区の開発に大きく貢献した。