16世紀後半の日本を襲ったキリシタンを、戦後インテリ層に猖獗したマルキシズムに照らしあわせて考えるとどうなのだろうとふと思った。大学紛争胎動期に入学、3回生後期にスト突入、その嵐をかいくぐって6年間居た学生時代、マルキシズムの洗礼を受けそこからいかにして脱け出るか、私にとってまさにそのプロセスを体験した6年間だった。しかしそれも、戦国期に日本を襲ったキリシタンの猛威に比べれば、頭の先っちょの児戯に等しい、そんな気がする。

『秀吉はキリシタン大名に毒殺された』に、「関ヶ原の戦役の常識はほとんどが後代の創作」の章で上杉藩についての言及がある。《西軍の石田三成は、五大老の一人・上杉景勝と図り、家康を挟み撃ちにしようと計画した。家康が上杉を征伐するために江戸を離れたところで、挙兵すると内々上杉家に約束していた、と後世に伝えられてきた。/家康の横暴なやり方に対し、五大老・上杉景勝の重臣・直江兼続が「家康殿に豊臣家に対する逆心あり」と、非難する手紙を家康に送った、(直江状)。これを読んで、家康は上杉征伐に動いた、とされている。/しかし、その「直江状」は実在しない。文献に初めてあらわれるのは、関ヶ原合戦から80年も経った1680年である。国枝清軒が著した『続武者物語』に、石田三成が直江兼続に手紙を送ったというところから来ている。そこには「家康は一昨日の6月18日に伏見を出馬し、かねてからの作戦が思うとおりになり、天の与えた好機と満足しています。私も油断なく戦いを準備しますので、(中略)会津方面の作戦を承りたく思います(現代語訳)」とある。この三成の手紙も偽書である、ということだ。/石田三成と上杉景勝の家康挟撃作戦は存在しなかったようだ。第一、米沢は京都から遠すぎて連携できない。/米沢(出羽 山形県)の上杉景勝を討つために、家康が京の伏見を出て、下野(栃木県)の小山まで行軍した。そこで石田三成の挙兵を聞く。家康は西に向かう前に、諸将を集めて、意思統一を図る。この時秀吉恩顧の大名・福島正則が、家康と共に戦う、と発言した(小山評定)。この出来事も本当はなかった。/「ウソだらけの関ヶ原の戦い」と、最近の歴史学者たちは、首をかしげている。》(214-215p)

ずーっと気になっているのが、直江兼続とキリシタンの関わり。兼続死後の藩内での冷遇は、家康に叩きつけた「直江状」についての磐石となりつつある徳川体制への免罪の証、との説が一般に言われているのだが、なにか腑に落ちなくて、むしろ兼続とキリシタンとの密接なつながりについての歴史を封印するためのものではなかったかの漠然とした疑念があった。このことは、兼続とも縁深い尾崎の歴史上杉藩正史から抹殺されたこととも関わる。いずれきちんと考えてみたいが、とりあえず、南陽市でのキリシタン関連をあげておく。思っている以上にキリシタンとは縁ある土地だったのかもしれない、そんな気がしてならない。