記念館の販売コーナーに『蒲生氏郷小伝』があった。うかつにもこの時初めて蒲生氏郷によって、松阪とわが置賜が縁あることを知った。あらためて『南陽市史 中巻』を繙いてみる。第1章第1節に「蒲生氏の入部」の項がある。伊達政宗転封後の置賜郡は、天正19年(1591)9月奥羽仕置の勲功により蒲生氏郷に加増された。/蒲生氏は藤原秀郷の裔。近江国守護六角氏の滅亡により、父賢秀が織田信長に臣従した。氏郷は、永禄12年(1569)、14歳で伊勢国大河内城攻めに大功あって信長に認められ、信長の娘と結婚して近江国蒲生郡日野城を与えられた。天正10年(1582)、本能寺の変後は豊臣秀吉に従い、小牧合戦の美濃国加賀井城攻略の功で伊勢松坂12万石を領した。その後、紀州・越中・九州に連戦して功あり、天正16年(1588)4月、正四位左近衛権少将に任じ、羽柴姓を許された。天正18年の小田原攻めでは韮山城を攻め、次いで奥羽仕置軍の先鋒をつとめて功あり、秀吉が伊達政宗から取り上げた会津6郡・仙道5郡42万石に封ぜられた。そしてこの度は、葛西・大崎の一揆、および九戸の乱を平定した功により、置賜郡・伊達郡・信夫郡など伊達領の旧領も加えられ、73万石の大大名に成り上がった。官位も従三位・参議(宰相)に進められ、奥羽の押さえとして重きをなすことになったのである。》(16p)ここ北条郷は、中山城1万3千石蒲生左門郷可(さとよし)の知行となる。蒲生による置賜支配は、直江兼続が入る慶長3年(1598)まで8年間つづくが、氏郷は文禄4年(1595)40歳で亡くなっている。松阪にとっての氏郷は「商都まつさかの礎を築いた殿様」として、毎年秋に「氏郷まつり」が行われるほど大事な人であったことを知った。