一旦断念した出馬だったのに、断念を覆して再出馬に至ったのは、「これから地方への人口移動が始まる」との確信だった。11日の晩、「宮内の人口はどんどん減って、宮内なんていずれなくなるかもしれない」と説く現職議員と議論になって、翌朝目覚めた布団の中で再決意の思いが芽生えたのだった。その日こども園の賞与支給日で、職員に渡すことを念頭に書いたのが「人口増に備えよ!」の記事だった。書きながら芽は次第に膨らんでいったのだと思う。その日一日温めてその晩からおそるおそる家族の了解への探りを入れ、13日になってようやく気持ちを定めて立候補への準備を始めたのだった。出馬断念中(多分10日の午後)の伊藤俊美前議員からの、必死の電話の声が耳に残っていた。「タカちゃんタノム! 15日まで間に合うから」。伊藤さんは、地区長会からの「11議席に定数削減要求」を検討して「現状のまま」を結論づけた委員会の長だった。無投票はあってはならない、それだけに必死だった。家内に戸籍抄本をとりに市役所に行ってもらったのも、法務局に「告示当日は日曜なのに供託金は受け付けてもらえるのか」と問い合わせたのも13日の午後だった。そこから選管に洩れるかもしれないことも覚悟していたのだが、しっかり守秘義務は守られた。選管の恨みを買うことになってしまったが、私の出馬表明でひとりでも出馬をとりやめれば選挙はない。そのことを恐れてのことだった。(ご理解を乞う、U君。)そこから15日告示日午後の届出完了まで、そのあとの展開はもう神様任せ、阿吽の呼吸で応えてくれた竹さんなしではできない芸当だった。竹さん、選挙終わって数日後、病院に運ばれることになってハラハラしたが、4月1日、何事もなく家に戻りました。記録にとどめておかねばと思っていた以上の流れ、日経記事がきっかけで書くことになりました。「新型コロナウイルス→都会から地方への人口移動」は、今回選挙で訴えた中心テーマでした。

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