私は学問道場の会員で、重たい掲示板の投稿をみてこちらに訪問させていただきました。めいさんの重掲での投稿はときおり拝見しており、概ね首肯できることばかりです。ただ(めいさんを批判する意図はまったくないのですが)、今回の投稿は(何度か読み直しましたが)趣旨がわかりません。もしよろしければご教示いただき、論考を深めるべく、コメントすることにしました。
(1)文明史的大転換について
めいこ氏が「文明史的大転換」に思い至ることができていないとありますが、その「文明史的大転換」つまり参政党のもつ「文明史的大転換」の意義とは何を指すのでしょうか?
後段の引用(タス通信)を合わせて解釈すると「スピリチュアルな存在としての拠り所のようなもの(?)」「信仰の対象(?)」という意味と理解していますが、そういう意味でしょうか?
(2)共有型経済(リフキン氏の著作)について
私はその内容を懐疑的にとらえているため、それが文明史的大転換といわれても今一つ納得ができませんでした。
こういう理想論(善いことをした存在が評価される)は現実に合致してこそ価値があると思いますが、現実とは裏腹でむしろ危険ではないでしょうか。仮にリフキン氏の述べるとおりに社会が変化したとすれば、ビルゲイツのような経済強者は「社会的起業家」となり、「温暖化防止・SDGs推進・ワクチン推進」など「善いことをなす存在」
として社会に浸透することになりますし、じっさいに現在進行形でそうなっています。この動きを全力で阻止するには、まず、そのヘンな理想論は捨て去るのが良いように思いますが、めいさんはどのようにお考えでしょうか。
以上です。長文になり恐縮ですが、どうぞよろしくお願いいたします。
川喜田二郎著『「野生の復興」デカルト的合理主義から全人的創造へ』(祥伝社 平成七年)の終章です。
(「「デカルト的呪縛」からの解放」https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2006-03-23)
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・・・・・管理社会の中で育った個人主義者は、他人を押しのけてでも自分が上に立ちたいという権力欲の虜になりがちである。親子・夫婦・友人たちとの、もともと持ち合わせた素直な人間らしさよりも、この権力欲を最優先する。そうして、それがもともとの偽らない人間性だと信じ込みたがる。
・・・・・文明の毒気に当てられてもけっして崩れない、鍛えられて逞しい素朴人を、いかにして育て、保護するか・・・
・・・・・(自分にとって未知なひと仕事を、白覚的に達成することによって、人の心は)この世が瑞々しく見えてくる。青春が甦る。
馥郁たる香りがどこかから匂い、万物に愛と不思議を感ずる。利己心も利他心も、それぞれが大切な大自然からの授かりものと感ずる。どんなに状況が変わっても、その状況の中で主人公でいられる。しかも「私は山川草木のひとつである」という、言いしれぬ謙虚さを覚える。
自分のことを、ごく当たり前の人間だと感ずる。たとえば、死ぬことはひじょうに怖い。なぜなら、もともとそう怖れるようにこの世に送り出されたからである。ただ、死ぬのは怖くても、そのくせあまり生命に執着していない。
それはどうやら、自分が死んでも、私を包んでいた大きな伝統体は、まだまだ生き続けていてくれるからである。
なんと、これが安心立命というものに近いのかもしれない。
ただ、私が今ハッキリ言えることは、誰もがあのヘゲモニズム(常に他より上を目指してやまない覇権主義)の地獄から抜け出し、それぞれに安心立命を得た方がよいということである。
このような内面体験の一つの大きな特色は、もはや「自我」という固い観念の穀を内側から叩き破って、広い世界の自由で新鮮な空気を深々と呼吸していることなのである。
「自我」ではなく、知・情・意いずれをも備え、肉体そのものである「己れ」として生きている。
しかもその「己れ」は、そう自覚した方がよい場面でだけ存在するのであって、それが必要でなくなったら、いつでも「己れ」を退場させてしまう。つまり「己れ」は実体ではないのであって、方便として存在するだけなのである。
眠くなったら、「己れ」などなくなってしまう。仕事に打ち込んだら無我の境地になる。彼女に首ったけになったら、我を忘れる。何かの使命を感じたら、献身をも恐れない。こういったことは、誰でもよく知っているではないか。
ならば、それを正直に受け容れたほうがよいのではないか。
文明は不幸なことに、方便としてしか存在しない「自我」という観念を、何か固定した実体のように錯覚させてしまった。そうして、それによって、一方では「自我」の消滅におぴえつつ、他方では留まることをしらぬヘゲモニズムという奇形児を生んでしまったのではないか。
● Oneさんから
やはり、意味不明と思われるかたがいらっしゃいましたか。
私の視点はまったく別ですが、めいこさんについての評価はまったく当たっていません。
めいこさんは帰国子女ではなく、ドイツで現役の社会人をやっていらっしゃるようです。
そして、さらに、アナーキストを自称していらっしゃるようで、私は充分に共感しております。
はぐらめいさんは、アナーキストを既存の哲学的尺度で判断していらっしゃるようで、副島さんと近いレベルなのかと思っています。
そういった点で、アナーキスト、アナーキズムを理解するのは難しいのかもしれません。
アナーキストは老荘思想に近く、道家の思想と近似したものがあります。
つまり、孔子以降、淮南子以前といった部分に当たるようです。
東洋思想に明るくないのであれば、アナルコサンジカリストの理解から入るのが容易だと思われます。
アナーキストを理解する一番の資料はイタリア映画「我が青春のフロレンス」を見られることをお勧めします。
by One (2022-06-20 13:10)
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