私なりの歴史があって、参政党に出会いました [参政党]
konaさんから、昨日の記事についてのコメントいただきました。それへの返信です。
* * * * *
私なりの歴史があります。そうして今の自分です。そして参政党に出会いました。今の自分の考えを理解していただくために、かつて書いたいくつかを掘り起こしてみました。(「光の子ども」は幼稚園(今は認定こども園)の卒園文集です。保護者向けなので読みやすいと思います。2年前、15年分を小冊子にまとめました。ご希望あればお送りします。→oshosina@omn.ne.jp)
「生きる」上で大切なのは、「どう思うか」ではなくて、「どう願うか」だと思っています。
・「「実存感覚」(「光の子ども」原稿)」https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2018-02-12
・「30年後の置賜(「光の子ども」原稿)」https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2015-02-17
・「「置賜獅子の会」復活へ!」https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2020-04-19-1
・「「実存感覚」(「光の子ども」原稿)」https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2018-02-12
・「30年後の置賜(「光の子ども」原稿)」https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2015-02-17
・「「置賜獅子の会」復活へ!」https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2020-04-19-1
「オカネ」については
・「時代の変わり目の中で(「光の子ども」原稿)」https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2009-03-25
・「mespesadoさんによる経済談義(107)通貨発行をめぐる「タブー」」https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2019-07-14
・「mespesadoさんによる1億人のための経済談義(64)「新しい金融理論」(2) 」 https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2019-04-29
・「mespesadoさんによる1億人のための経済談義(35)オカネはモノじゃない。単なる数字」https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2018-10-11
・「安西正鷹『お金の秘密』を読む(まとめ) お金と時間の問題から現代われわれの実存的課題に迫る良書」https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2015-03-23
・「置賜地域の合併ビジョン私案 補説 地域通貨とベーシックインカム」https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2008-02-29
・「時代の変わり目の中で(「光の子ども」原稿)」https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2009-03-25
・「mespesadoさんによる経済談義(107)通貨発行をめぐる「タブー」」https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2019-07-14
・「mespesadoさんによる1億人のための経済談義(64)「新しい金融理論」(2) 」 https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2019-04-29
・「mespesadoさんによる1億人のための経済談義(35)オカネはモノじゃない。単なる数字」https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2018-10-11
・「安西正鷹『お金の秘密』を読む(まとめ) お金と時間の問題から現代われわれの実存的課題に迫る良書」https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2015-03-23
・「置賜地域の合併ビジョン私案 補説 地域通貨とベーシックインカム」https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2008-02-29
「共感」については
・「明るい未来へ(『光の子ども』寄稿)」https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2017-03-07
・「平成27年度『光の子ども』「共感」の輪」https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2016-03-10
・「「お祈り」の習慣」https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2008-03-09
・「明るい未来へ(『光の子ども』寄稿)」https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2017-03-07
・「平成27年度『光の子ども』「共感」の輪」https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2016-03-10
・「「お祈り」の習慣」https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2008-03-09
以下、konaさんからのコメントです。
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詳細なご返答をありがとうございます。興味深く記事を拝見させていただきました。私自身も今日の記事を踏まえて再度いろいろ考えてみました。以下の点、ご高覧いただければ幸いです。
(1)参政党について
めいさんの文明史的大転換の意味内容は把握できました。それでは、めいさんは、参政党が「文明史的大転換」にどう関係していると考えていらっしゃいますか?※なお私は参政党の支持者ではありません。めいこ氏の支持者でもありません。
(2)文明史的大転換について
私はめいさんとは論を異にします。文明史的大転換が起きない、実際にその兆候も見受けられないと思います。
【2‐1】オカネ観
金融経済が崩壊する、だから実物経済に戻るというのは単に「元に戻る」だけの話で文明レベルの話ではないように思います。金融経済も実物経済もどちらにしてもそれは、2000年のうお座の範疇にある「単なる社会制度」にすぎないのではないでしょうか?
オカネ観の変容も疑問です。たとえばビルゲイツ(経済強者)はオカネ観を変えましたでしょうか?現状は何も変わっていないように思います。また、所有権概念の相対化がその変容に含まれるのならば、超管理社会が現前に迫っている現状とすればそれは「危険」のほうが大きいのではないでしょうか。
【2-2】動物虐待
動物虐待を一例に挙げます。飼育放棄や殺害などの動物虐待はニュースになりますが、それよりなにより、目に見えない動物虐待は絶賛拡大中で、良い兆候など微塵もありません。私は犬を飼い始めたころ、あまりの不自然な業界に驚嘆しました。
いったん子犬を飼い始めるとマイクロチップ・ワクチン・去勢避妊・ドッグフードなどありとあらゆる手段で体力を奪っていきます。
これはこの業界で標準化されており、その呪縛から逃れるのは至難です。その結果、世の中には本当に驚くほど不健康そうな犬が溢れています。こういうのを「動物虐待」と私は思うのですが、違いますでしょうか?
「子犬のうちに去勢避妊しないと不健康になる」なんて騙される人がいるの?と思っていると、周囲の犬の9割以上が去勢避妊手術済みです。コロナワクチンの洗脳そっくりです。飼い主は皆「いいことをしている」と思っており、救いようがないです。現状が改善される「舵の先端だけ」でも見つけたいところですが、その見込みは絶望的にありません。支配される側はきつい洗脳にかかっていますし、支配層は強欲なままです。これでどうして文明の転換が起こるのですか?むしろ事態は悪化しているのではないですか?
動物業界に限らず、社会のどの側面で見ても、現状は似たようなものです。大変残念なことですが、管理社会(ディストピア)まっしぐらで、悲観的な将来像のほうが(私の実生活での肌感覚では)強まっているように思います。
(3)共有型経済について
めいさんの見解には、この点、意見を異にします。優越意識が諸悪の根源かどうかは私にはわかりませんが、仮に優越意識が諸悪の根源だとしても、それは人間の持つ生来の性質で、そんな簡単に昇華できないように思います。
それはそれとして、少なくともリフキン氏の考え方は、美辞麗句を連ねた理想論で、新手の文化大革命(超管理社会への扇動)につながる危険性があるように思います。
実際の運用段階ではあらぬ方向にもっていかれる危険性があります。たとえば「いちだんと大きな比喩的家族や相互依存」とは具体的に何でしょうか?本当にその考え方が必要でしょうか?
「家族は家族、他人は他人」で誰も困りません。「いいですか~、他人も大きな意味では家族ですよ、家族として扱いましょう、団結しましょう」は「偽善」をはらみます。解釈のありようでいくらでも悪用できてしまいます。
社会で共感されているという錦の御旗に隠れて「優越意識(支配意識)」がのさばる姿しか想像できません。たとえば伝統的家族を解体し、愛ある存在(=社会的起業家が運営する収容所)に子供たちを団結(強制収容)することも可能です。なにせ社会的事業家は、「善いことをする存在」なんですから、なんでもありですよね。
「善いことをしている」と思っている集団が一番の狂気をはらむという例は歴史上、枚挙にいとまがありません。優先意識が共感によって昇華されるという保証はどこにもないのですから、それぐらいなら現状の枠組みのほうが対応策も見つけやすいですし、マシなのでは・・・と私は思います。
(1)参政党について
めいさんの文明史的大転換の意味内容は把握できました。それでは、めいさんは、参政党が「文明史的大転換」にどう関係していると考えていらっしゃいますか?※なお私は参政党の支持者ではありません。めいこ氏の支持者でもありません。
(2)文明史的大転換について
私はめいさんとは論を異にします。文明史的大転換が起きない、実際にその兆候も見受けられないと思います。
【2‐1】オカネ観
金融経済が崩壊する、だから実物経済に戻るというのは単に「元に戻る」だけの話で文明レベルの話ではないように思います。金融経済も実物経済もどちらにしてもそれは、2000年のうお座の範疇にある「単なる社会制度」にすぎないのではないでしょうか?
オカネ観の変容も疑問です。たとえばビルゲイツ(経済強者)はオカネ観を変えましたでしょうか?現状は何も変わっていないように思います。また、所有権概念の相対化がその変容に含まれるのならば、超管理社会が現前に迫っている現状とすればそれは「危険」のほうが大きいのではないでしょうか。
【2-2】動物虐待
動物虐待を一例に挙げます。飼育放棄や殺害などの動物虐待はニュースになりますが、それよりなにより、目に見えない動物虐待は絶賛拡大中で、良い兆候など微塵もありません。私は犬を飼い始めたころ、あまりの不自然な業界に驚嘆しました。
いったん子犬を飼い始めるとマイクロチップ・ワクチン・去勢避妊・ドッグフードなどありとあらゆる手段で体力を奪っていきます。
これはこの業界で標準化されており、その呪縛から逃れるのは至難です。その結果、世の中には本当に驚くほど不健康そうな犬が溢れています。こういうのを「動物虐待」と私は思うのですが、違いますでしょうか?
「子犬のうちに去勢避妊しないと不健康になる」なんて騙される人がいるの?と思っていると、周囲の犬の9割以上が去勢避妊手術済みです。コロナワクチンの洗脳そっくりです。飼い主は皆「いいことをしている」と思っており、救いようがないです。現状が改善される「舵の先端だけ」でも見つけたいところですが、その見込みは絶望的にありません。支配される側はきつい洗脳にかかっていますし、支配層は強欲なままです。これでどうして文明の転換が起こるのですか?むしろ事態は悪化しているのではないですか?
動物業界に限らず、社会のどの側面で見ても、現状は似たようなものです。大変残念なことですが、管理社会(ディストピア)まっしぐらで、悲観的な将来像のほうが(私の実生活での肌感覚では)強まっているように思います。
(3)共有型経済について
めいさんの見解には、この点、意見を異にします。優越意識が諸悪の根源かどうかは私にはわかりませんが、仮に優越意識が諸悪の根源だとしても、それは人間の持つ生来の性質で、そんな簡単に昇華できないように思います。
それはそれとして、少なくともリフキン氏の考え方は、美辞麗句を連ねた理想論で、新手の文化大革命(超管理社会への扇動)につながる危険性があるように思います。
実際の運用段階ではあらぬ方向にもっていかれる危険性があります。たとえば「いちだんと大きな比喩的家族や相互依存」とは具体的に何でしょうか?本当にその考え方が必要でしょうか?
「家族は家族、他人は他人」で誰も困りません。「いいですか~、他人も大きな意味では家族ですよ、家族として扱いましょう、団結しましょう」は「偽善」をはらみます。解釈のありようでいくらでも悪用できてしまいます。
社会で共感されているという錦の御旗に隠れて「優越意識(支配意識)」がのさばる姿しか想像できません。たとえば伝統的家族を解体し、愛ある存在(=社会的起業家が運営する収容所)に子供たちを団結(強制収容)することも可能です。なにせ社会的事業家は、「善いことをする存在」なんですから、なんでもありですよね。
「善いことをしている」と思っている集団が一番の狂気をはらむという例は歴史上、枚挙にいとまがありません。優先意識が共感によって昇華されるという保証はどこにもないのですから、それぐらいなら現状の枠組みのほうが対応策も見つけやすいですし、マシなのでは・・・と私は思います。
ご返信をありがとうございます。各記事を拝読させていただきました。めいさんは人徳があり自然かつ立派な人生哲学のある方との感想を持ちました。いろいろご教示いただきありがとうございます。
めいさんの見解をもとに重掲の投稿に立ち返って感想を述べたいと思います。
(1)文明史的大転換について
めいこ氏に対するめいさんの批判は根拠不足です(めいこ氏の好悪は別にして価値中立的に判断します)。
①新たな枠組み(文明史的大転換)に基づいた帰結(利益)と
②既存知に基づく論考への批判(不利益)が
具体的に説明されないと読者は一読して内容を了解できないように思います。読み終わると結局「何がどうして的外れなの?」という疑問がわき、単にめいこ氏への悪口を述べているだけのように読めてしまいます。それはめいさんの言いたい意図とは異なるように思います。
(2)個を原理とする時代から共感を原理とする時代への転換について
(・「「お祈り」の習慣」https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2008-03-09 からの引用)
「個」を原理とする時代から、心と心の交流、「共感」を原理とする時代への転換が始まったと考えられます。「KY(空気が読めない)」といった言葉が流行語になってしまうのもその現われかも知れません。
(ここまで)
konaです。共感は社会レベルで広めるものではなく、あくまで個人レベルでの人生訓にとどめるべきものと思います。「気の合う人とは付き合えばいいよね」という感情が自然発生的に広がるのは別にいいのですが、そもそも日本ではもうこれ以上、共感を強める社会を望む必要性はないように思います。
現実に、空気を読む人間関係に疲弊している人も少なくありません(私もその一人です)。実際、マスク・ワクチンの拒絶には「KY」でないと難しかった面は多々あります。それなら、KYで上等ではないですか?
日本は近代社会ではなく部族社会ですので、部族のおきてが価値の最上位に来ています。良いも悪いもなくそういうものなんでしょうけど、あえて抵抗するなら、「自分だけで自律的に判断できる」人間を増やすことのほうが将来が明るいように私には思えます。それは「今だけ金だけ自分だけ」というワガママとは一線を画す話です。
めいさんの見解は人生哲学的には一理あると思っておりますが、それは原理を転換する必要性とレベルが違う話に思います。
by kona (2022-06-22 10:51)
konaさんへ
今日の記事で返信しましたのでお読みください。→https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2022-06-23-2
by めい (2022-06-23 05:46)