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これまで断片的に聞きかじってきた情報が、著者に備わる「俯瞰力」によって一枚の「鳥瞰図」となって網羅されている。カバール自体を、一つの意思を持った存在として浮かび上がらせた。その一つの意思とは、行き着くところまで行ってしまった”人知の果て”、そう思う。「”知”は最終的に泥棒に至って、そして最後は、狂気に至る」(マドモアゼル・愛)。
たまたま天童竺丸著『悪の遺産ヴェネツィア』の終章、「世界権力の正体を明かす」を読んだ。いわゆる”陰謀論”のレベルではない、さらにその奥が見えてくる。その最後にこうあった。《この文明の大転換期に際し、われわれ日本人の果たすべき使命は限りなく重い。》ここでいう「日本人」は、「ツラン民族」に連なる日本人である。「ツラン民族」は「ツングース系」とほぼ同義、広く日本民族も含まれ、白人アーリア民族に対置される。その基層にあるのがシャマニズム、つまり「神懸かり」。人と神との一体化であって、行き着くところ「われは神なり」。この感覚、クリスチャンには理解できないらしく「傲慢だ」と言われたことがあった。”人知の果て”と”神たるわれ”の超え難い壁。カバールはそこに気づいている。コロナワクチンについてこれまで知ったことで何が恐ろしいかと言えば、ひとつは人間に本来備わった免疫力を阻害しかねないということと、もうひとつは「神につながる遺伝子」ともいえるVMAT2遺伝子(小胞モノアミン伝達物質2)のシャットダウン。計り知れないものに対しては、自らのレベルまで落とし込むことで手の内にするのが”知”の流儀。この流儀にまんまとはめ込まれてきたのが、戦後の日本ではなかったか。
たとえば、《1960年代のヒッピー・ムーブメントは、キリスト教の倫理を破壊するためにタヴィストック研究所が仕掛けたもので、CIAが密輸した麻薬がアメリカ人のヒッピー化を助長した。/ウーマン・リブやシングルマザー謳歌も、家庭を破壊して個人の労働時間を延長し、疲れさせ、日々のこと以外は考えるゆとりがない、という状態に陥れ、カバールの存在に気づかせないようにさせるためだった。》(32p)この部分、われわれいわゆる「全共闘世代」にそのまま重なった。実はわれわれ世代を評価した著に出会って満更でもなく思ったことがあった。《21世紀を発明した人々が、スティーブのように、サンダル履きでマリファナを吸う西海岸のヒッピーだったのは、彼らが世間と違う見方をする人々だからだ。東海岸や英国、ドイツ、日本などのように階級を重んじる社会では、他人と違う見方をするのは難しい。まだ存在しない世界を思い描くには、60年代に生まれた無政府的な考え方が最高だったのだ。》(井上智洋『純粋機械化経済』)とあり、日本にその流れを探りたかった。コロナワクチンのいかがわしさへの行動を期待して「目を覚ませ!全共闘世代」と放知技板や副島重掲板で呼びかけたが、何の反応もなかった。あらためて、われわれ「全共闘世代」とは何だったのかを思った。思い至ったのが、当時から「学生時代は大暴れしていた連中も、就職すればみんな会社人間になってゆく」と言われていたことだった。その通りだったのだ。若月弦太郎『オリンピアン幻想』(藤原肇)巻末解説に言う、《逆境の中で人は考えることを通じて鍛えられ、より本質的な不易の問題を大事にするものだが、不易に代わって流行が時代精神を支配し、節度と規範を捨てて物欲を指向したことで、バブル経済の中で亡国の歯車が回転し始めた。》その後にこうつづく。《利権として長野に招いたオリンピック大会や、大国意識への陶酔に続くバブル経済によって、日本列島を覆った宴の跡の狼藉のせいで、その悲惨さは目を覆うばかりになっている》。 まさにそういう時代を牽引したのが全共闘世代を含むわれわれ団塊の世代であった。ゲバ棒振回す学生から従順な会社人間へ、そこのところでいとも簡単に(何の「総括」もなく)「節度と規範」を捨てた。彼らに「一貫性」という言葉ほど似つかわしくない言葉はない。そもそもそうしてしまうことこそが、カバールがわれわれ世代に仕掛けた罠なのではなかったか。《1960年代のヒッピー・ムーブメントは、キリスト教の倫理を破壊するためにタヴィストック研究所が仕掛けたもので、CIAが密輸した麻薬がアメリカ人のヒッピー化を助長した》(32p)。そしていま、たやすく流行に乗る人間をつくりあげることに成功した。そういう人間たちが、何の疑いもなくコロナワクチン接種に雪崩打つのは必然なのだ。なんとか、「自らの内なる必然」を取り戻さなけれなならない。