『チコちゃんに叱られる!』で正解すると漢字の書取り問題が出るが、それを見るたび国語教育の惨状を思う。また、『プレバト!!』の俳句短冊でもなかなかいい文字には出会えない。スラスラ誰でも筆で書けた昔の人はすごかったと思う。それだけに『文化防衛論』要約冒頭の指摘は、グサリと突き刺さった。《「華美な風俗」だけが氾濫する戦後の日本文化の衰退や形骸化を「近松も西鶴も芭蕉もゐない昭和元禄」》《何故そのように「詩の深化」を忘れた文化に陥ったのか》


『源氏物語』を読みつつ思う、和歌による交歓に見る「詩的世界」。性愛が主題になっているとしても、その性愛は行き着くところの交合を頂点としたヒエラルキーには必ずしもなってはいないように思える。「対幻想」的人間関係の総体としての男女の関係、ふたりのあいだの思いは無理なく溶け合わせることができる。細胞レベル、遺伝子レベルで呼び合う恋愛はその極致である。》https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2012-03-21ような人と人との関係にとことんどっぷり浸りきってみること、おのずとそこに「詩」が生まれ、それこそが神代以来の日本の「文化」なのではなかったか。ところがそこにズカズカ割り込んできたのがゼニカネ感覚、そのことで「文化」の多元的な豊饒さは、ひたすら即物的に平板化されて今の世界。幸か不幸かコロナ禍によってそのことが可視化され、反省されつつあるのではないか。何がほんとうに大事なのか、みんな足元を見つめ出している、そんな気がする。夜8時過ぎ公園への散歩を始めて1ヶ月ぐらいになる。ほとんどだれとも会うこともない。町はひっそりとしずまりかえっている。「あれもできない、これもできない」と言いながらも、せわしない今までの暮らしからの解放感に浸りつつ、いい時間を過ごしているのではないだろうか。そんな気もする。


『文化防衛論』は、現状日本の「菊と刀」双つながらの喪失を憂えてこう説く。日本文化の「全体性と連続性の全的な容認」が大事であり、現代の日本では「刀」(尚武の要素)が絶たれた結果、「際限のないエモーショナルなだらしなさ」が氾濫し、かたや戦時中は『源氏物語』などが発禁、言論統制されて「菊」(文雅の要素)が絶たれた結果、逆方向に偏ったのである。よって圧制者の「ヒステリカルな偽善」から、文化のまるごとの容認、包括性を守らなければならない。》陰極まれば陽生ず、コロナ禍はそのための胎動の時間を与えてくれているのかもしれない。


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