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『まちづくり幻想ー地域再生はなぜこれほど失敗するのか』を読む(1)思い出したこと [本]

まちづくり幻想.jpg木下斉著『まちづくり幻想ー地域再生はなぜこれほど失敗するのか(SB新書 2021.3)を読んだ。40年前を思い起こした。

昭和55年ごろ、「地方の時代」のかけ声の下、「地域主義」の言葉が一世を風靡した。60年安保以来の大学発紛争も終息し、多分にマルクス主義の影響下にあっての大所高所からの議論の時代は勢いを失い、そうではなく足元に目を向けようという時代の変化があった。主導した論客のひとり玉野井芳郎(1918-1985)の名が浮かぶ。その著作の歴史を辿ると、『マルクス経済学と近代経済学』(1966)に始まり、『エコノミーとエコロジー 広義の経済学への道』(1978)を経て『地域主義の思想』(1979)となる。この流れ、体感としてよくわかる。

いあかにして「南陽衆」足りうるか報告書.jpgわれわれが交流することになったのは、清成忠男法政大教授のグループだった。清成教授は国民金融公庫調査部調査課長を経て大学教授にという経歴で、現場密着の立場での言論だった。『地域主義の時代』(1978)はバイブルのように読んだ。清成グループとの交流は、「いかにして”南陽衆”たりうるか!?」の報告書として残った。→「「地元で買物キャンペーン」の記憶から」https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2014-04-15

山形県庁に半田次男という地域振興で著名な行政マンが居られたこともあって「西の大分 東の山形」などと、多少買い被られて言われたこともあったが、何と言っても当時の先進地は大分の湯布院町だった。われわれはその後塵を拝していたわけで、その後いったいわれわれに何が残っただろうか、というと心もとない。報告書だけだとしたら情けない。『まちづくり幻想』を読みつつ、そんな40年前のことを思い出させられた。

ムラおこしの実践と理論.jpg清成グループの活動から「ムラおこし」という言葉が生まれた。ムラおこし(内発的地域振興)の実践と理論』と題された記念碑的冊子が手元にあった。清成先生を委員長とする「ムラおこし研究会」による。NIRA(総合研究開発機構)による助成で発行は(社)大分県中小企業情報センター。昭和55年2月の発行(南陽市のシンポジウムがその年の2月24日)。「エグゼクティブサマリー」として要約された本文冒頭の文章が当時を思うに貴重に思え、書き写すことで40年前を反芻してみたい。

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エグゼクティブ・サマリー〉

●国の財政力低下や民間設備投資のスローダウンが予想される80年代の地域振興は、これまでの企業誘致型の地域開発ではなく、自立的、主体的な、内発的地域振興が中心になると思われる。
●我々が「ムラおこし」と呼ぶ、内発的地域振興については、個々の事例についての部分的究明以外にこれまで系統的な研究が行われたことがなく、本調査が全国でも初めての試みかもしれない。
●とくに、ムラおこしを成立させる主要な要因として、人と組織に着目したこと、またそのテーマに沿って、湯布院地域という格好のフィールドがあったこと、が本研究の成果に寄与したと思われる。
●今回は調査のための調査ではなく、担い手自らが、調査研究メンバーに加わり、原稿執筆にもかかわる体制をつくった。それは随時、調査と実践の間のフィード・バックを可能にし、一定の波及効果を呼びおこした。このような手法を、アクション・リサーチと称している。
●アクション・リサーチを可能にし得る条件として、多種多様な視角を持ったメンバーの参画が不可欠である。すなわち、地域の内側に向けて集約的な力を発揮する定住者と、地域と地域を媒介し、相対化することのできる非定住者ないし漂泊者の連携である。
●幸いにして、本調査においては、昭和51年に湯布院町において開催された「まちづくりシンポジウムーこの町に子供は残るか」を契機に、専門家や研究者あるいは他地域の活動家、実務家などの恒常的交流が拡大してきた。また観光地という町の性格上、人の往来が盛んで、情報や人の多彩なネット・ワークが形成されていたことも、広い分野からの協力が得られる要因であった。
●アクション・リサーチの重要な手法の一つとしての「シンポジウム」は、運動のダイナミックな展開と、地域における新鮮なインパクトを引き起こす。助成期間中には大小の集会を開いたが、このような集会を節目にして、運動の継続的展開への手掛かりを提供することになったと思われる。
●個人の役割については、湯布院地域における具体的なケースを通して、イノベーター(革新者)、そのイノベーションを普及させる担い手としてのアーリー・アダプター(普及者)の存在を確認することができた。
●また行政や農協などの既存の組織に加えて、自主的な活動グループ、つまり中間組織ないし媒介組織が重要な役割を果すことも、実例の中で検証することができたように思われる。
●たとえば「ムラおこし研究会」においては、実行委員会自体が、こうした中間組織であったと考えられる。
●集会の開催に際しては、事前にアンケート調査を実施するなど、県下の自主的産業振興にかかわるグループの発掘につとめたが、大分県下においても、これまでまったく注目されなかった分野であり、全貌を捉えるまでには、至らなかった。むしろ湯布院町を中心にした交流による、口コミによる情報の方が、実際にはより多くのデータを提供する形になった。
●安心院町における「第一回ムラおこし研究集会」は、こうした事情から浮び上がった積極的なグループの参加が中心であったために、厳寒のシーズンにもかかわらず、多くの熱心な参加者を得て、最初の試みとしては、予想外の反響や波及効果を生み出した。
●内実の伴わない「地方の時代」や「定住圏」構想などへの疑問を背景にした80年代初頭の会合であったために、行政担当者の関心も強く、新聞等のマスコミも大きくとりあげたから、集会の主旨は全県的に広く伝えられた。
●時宜を得ていたということもあろうが、この会合を契機に、「ムラおこし」は県下各所で喧伝されるようになり、「ふるさとづくり運動」など県が推進してきた事業の中にもいち早くとり込まれた。
●地域においては、常に少数派であるグループ活動の担い手たちは、近辺に発見した同類の仲間の存在によって、勇気づけられ、刺激された。会合を通して知り合った仲間との、定期的な交流の機会を継続的に持つための準備も開始された。
●定住者と漂泊者による今回の調査研究は、県下の自立的な地域振興の諸々の活動が、今後も持続しうるための素地づくりに寄与したと思われる。
●いづれにせよ、「ムラおこし」のような地域における運動に関しては、未だ解明すべき課題が数多く残っており、今後の調査研究に俟つ所が多いのである。今回の自主研究が、その一つの試行として位置付けられるならば幸いである。

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こう書いていたグループが、宮内に来てシンポジウムを開いてくれた。清成忠男法政大教授、森戸晢地域総合研究所長、猪爪範子研究員、斉藤睦研究員、亀地宏日本経済新聞記者という顔ぶれだった。ほんとうに頭のいい、現場感覚で鍛えられたデキル集団だった。このシンポジウムの開催によって、発展から取り残されて遅れていた「イナカ(地方)」が、「都会」に伍しうる独自な存在として意識され始めるきっかけになったように思う。(つづく)

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