安藤礼二という人は井筒俊彦関連で知って惹かれるところがあったが、まとまったものを読むのは初めてだった。該博な知識世界に翻弄されながら、ここいらで一旦整理してみなければと思っていたところへの「何か書いてみないか」の誘いだった。
書き進めているうち、ちょうど没後150年の雲井龍雄が重なった。雲井龍雄の詩魂が遠くユーラシアを望んでいたことはかねて気になっていたのだが、『列島祝祭論』は、日本における祝祭の原型としての憑依(神がかり)文化の源流はユーラシアにあることを示唆してくれたのだった。そして思う、龍雄の魂の源流は、憑依文化を通してはるか日本を超え、大陸世界へとつながっていたのかと。
このほど岩波新書で『上杉鷹山ー「富国安民」の政治』が出た。著者は小関文典先生の御子息小関悠一郎千葉大准教授。この著で、鷹山公を「明君」たらしめたのは、鷹山公の資質・努力もさることながら、領地返上まで考えねばならないほど切羽詰まった地元生え抜き家臣たちの決死の覚悟があってのことだったことを明らかにしてくれた。さらに、「寛政以来、御治声高く、諸藩より来て、法を取る者(学びに来る者)多し」(甘糟継成『鷹山公遺跡録』)、この置賜にそういう時代があったと教えてくれた。
幕末から明治へ、戊辰の戦いで屈折を余儀なくされたとはいえ、置賜人の志は大きくアジアへと向かう。その源流に雲井龍雄が居る。(「置賜発アジア主義」『懐風』2019)そしておそらく、その精神を培ったのは鷹山公時代の治世であり、それを生み出す謙信公以来の矜持であった。そう思わせてくれるおすすめの好著だ。
そんなこんなで、つい手塚会長の誘いに乗ったことに発した私の思い込みは、藩祖謙信公にまで遡らせてくれることになったのでした。