「新風」1・2月号に掲載された小堀桂一郎先生の論考「『まつりごと』の原像と国難回復の基点」、短いが中身が濃い。建国記念日に読むにふさわしい。

日本のまつりごと(祭祀)の起源を見るに、高皇産霊神(天津神)が経津主神と武甕槌神に、大己貴神に対する戦勝を祈願させたところ、大己貴神は帰服する。そして地上の行政統治を天津神に譲り、自らは祭祀専念の神として皇孫を守護することになったと文献上はいう。しかし三内丸山遺跡の6本柱の大建造物発見によって、新たな展望が開けた。《田中英道氏の説に拠れば、三内丸山遺跡の示す村落の構造は、住居と墓地とが近接共存する構造から見て、この村の住民が既に祖霊崇拝の習俗を有してゐた証跡であり、六本の巨大な柱の構造物は、謂ってみれば神社の原像と見なすべきものである、と云ふ。・・・日本列島の住民は縄文時代前期、即ち約七千年前から六千年前にかけてとされる悠遠の昔に既に祖霊信仰といふ宗教を持ち、壮大な神殿を村落共同体の中心部に築き、当然ながらそこで営まれる「まつり」を以て住民の精神生活の統合を果たしてゐたことになる。》祖霊信仰に始まる祭祀は、漢帝国からの政治的圧力に並行して、国家共同体の守護霊としての天津神と、身を以て感ずる自然現象と結びつく国津神という、いわば「公」と「個」に次元が分かれる。やがて《かうした精神風土が列島全土の大きな部分を掩ふまでに成熟した頃合を見て、各地に簇生した部族乃至村落共同体を大規模に統合する形で神武天皇が畿内の橿原の地に即位され、日本といふ国家共同体が成立した。人々は天皇を新たに成立したこの共同体の昔ながらの守護霊の祭祀の司と見、自分達の個々のまつりの様式の範型をそこに仰ぎ見た。斯くして祭を共有する形での君と民との関係が成熟する条件は整った。》代々天皇の朝廷は祭祀の司として民の期待に応え、朝廷による共同体守護霊への尊崇が民安寧の保証となる。そして、《今日現在国民が直面してゐる国難への対処に際して、まつりごとに携る人々は、先づかかる悠久の歴史への畏敬を籠めての回顧から出発してもらひたい。国の守護霊は必ずや君民の祈願に応へてくれるであらう。》と最後を締める。「公」的神としての天津神と「個」的神としての国津神という括り方が、私には新鮮。