【前回紹介した「飯山史観」についてその出発点になったのは、日本国建国とは? 世界中で日本だけが真の日本の歴史を語れないのはなぜか?への飯山氏の古代史への執念だといわれています。】そのことを彷彿させる飯山氏の言葉があります。(◆2011/02/03(木) 金王朝の “深い深い謎” -68- http://grnba.com/iiyama/more17.html)
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北燕、百済、北魏、扶余、馬韓、百済。ツングース。天孫族。東胡。ツラン民族。…と、色々様々な民族の歴史と伝承を探りながら、日本のルーツを辿(たど)る! これは、範囲が広くて、歴史が長くて、奥も深い…。とにかく大変な作業です。
しかも…、
資料が少なくて、資料が消失したり、紛失したり、隠されたり、改竄されたりしている。
特に朝鮮に関する歴史資料には、犯罪! とも言うべき悪質な改竄が施された。
その実態は、改竄などという生やさしいモノではない。
明治期以来の 『古代史犯罪』(たとえば、遼東半島の熊岳城にあった『百済建国の始祖尉仇台之碑』を現在の韓国忠清南道の錦江まで移動し、そこが「百済建国の地」であったなどと偽装すること)によって、『日本人』のルーツである満州の『馬韓』や『百済』の位置が、朝鮮半島南部の釜山のあたりまでズリさげられてしまった。我々の先祖は、広大な満州の山野を悠々と駆けまわっていた騎馬民族・遊牧民族なのだが、我々の歴史は、朝鮮半島の南部にチマチマと閉じ込められてしまった。
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その日本人のルーツの大枠を示すと以下のようになります。
ツラン→ツングース→殷→箕子朝鮮→北魏→北燕→邪馬台国→馬韓→扶余→百済→済州島→九州宮崎→志布志・種子島→大阪・難波→奈良
是を踏まえたうえで、つぎに『先読み上手なオッサン』の“堺のおっさん”の言葉を紹介します。
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古代史の疑問が一つ解けたような気がします。
大唐帝国は、何故…百済を殲滅しようとしたのか?
一つの仮説として、「嫉妬心」があったのではと。
世界に冠たる大唐帝国は全てにおいて世界一でなければならない。
それは、中華思想の根本ですが、実は文明度において大唐帝国は百済に及ばなかった。
そんな存在は許されなかったということです。
・・・・・。
考古学では解き明かせない側面から考えるのも一興かと。
黄巾の乱当時、中国では人口が激減!
そればかりか、文明の維持すらも難しいほど乱れに乱れた。
そんな中で中華文明を継承して行った流れこそ百済に繋がる流れであると。
山東省の青州で飯山氏が現地の古文書で発見したことです。
その源流は殷に遡り、ツランにたどり着く。我々日本人とは、まったくもって奥の深い民族です。
もう一つ。
大隅半島とは日本のへそではないかということです。
飯山史観の中でも、天武朝は大隅半島で成熟し、河内に進出したという分析。南朝が北朝と最後の決戦を行ったのも大隅半島。
どうしてなのか?
何故、かくも歴史の節目に大隅半島が登場するのか?
それは、やはり、大隅半島が日本列島の中でも隔絶された地域であることに由来すると思います。
今でも大隅半島に行くには大阪発のサンフラワーが唯一といっても良い。
熊襲族(のちの隼人族)の拠点でもあり、最強の軍事集団をも生み出した。
鉄器ができる前から、黒曜石でクジラをはじめ、家畜の解体を得意とし、島津が入ってからは、日本でも有数の軍事国家(藩)として唯一700年以上も存続した。
全て、大隅半島の地政学的位置に由来すると言っても過言ではない。
日本人の形成に、大きな影響力を持っていたのも当然です。
そして今、朝鮮半島の動きにも繋がっているのですから…
日本人とは何者か? これは歴史を超えていますが、従来の日本列島内の縄文から始まる視点では理解できないものでしょう。
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さらに、飯山氏は次のようにも語っています。
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邪馬台国と卑弥呼の物語が古代日本の歴史だと思い込んでいるのは、日本人だけ。
中国や北朝鮮では、「卑弥呼=公孫氏」という記述は、学会の“常識”であろう。
なぜなら、卑弥呼の“反乱を鎮める鬼道”は、古代史の一大トピックであったからだ。
その大ニュースの記述が『晋書』にある。これは、必ず読まれ、“常識”になっている。 おそらく中国の歴史調査プロジェクト『東北工程』(ここには5000人以上の歴史学と考古学の学者が所属している)も、北朝鮮政府に直属する歴史研究チームも、韓国の「高句麗研究財団」も、邪馬台国と卑弥呼の問題は研究が相当進んでいる。 歴史は、国家・国民のアイデンティティの問題であり、ときに国際政治の問題となる。
中国の歴史研究国家プロジェクト 『東北行程』のターゲットは “満州” であり、今後、“満州” を舞台に、日・中・朝・韓・露が激しく対立する場面があるだろう。
実際、『東北工程』の渤海国と高句麗国の研究結果を、韓国政府は猛烈に非難。
すでに “満州の歴史” そのものが、政治問題化しているのだ。
日本は、歴史を日本列島の中だけで考える “一国歴史主義” なので、アジアの歴史が見えない、分からない、という歴史学・考古学の後進国。
邪馬台国の問題ひとつをとっても、『魏志倭人伝』の一字一句の解釈論争。 畿内だ、いや北九州だと、300年間も無益な論争を続けている。
『魏志倭人伝』も、また『日本書紀』も、異邦人が書いた歴史雑記なのに、古代日本の歴史事実だ! と夢中で思い込んだまま。覚醒しない。
これでは、日・中・朝・韓の厳しい歴史論争発生の際、日本はグーの音もでない。
「卑弥呼は公孫氏!」、「邪馬(やま)台国ではなく、祁馬(きま)台国!」。 この二つだけで、300年もかけた日本人の古代史研究は、全面崩壊してしまう。
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このことを頭の片隅に置きながら、飯山史観の
・邪馬台国の女王・卑弥呼は中国人だった!
・邪馬台国は、祁馬(きま)台国で日本にあるのではなく、魏国=中国からそう遠くない地域にあった!
ことを結論的なところについて簡潔にふれていきたいと思います。
◆卑弥呼が公孫氏であると書いたのは、中国の公的な歴史書(正史)『晉書』。
『晉書』の「卷九十七列傳第六十七 四夷倭人」にこんなふうに書いてある。
「人多壽百年或八九十 國多婦女不淫不妬无爭訟
犯輕罪者没其妻孥重者族滅其家 舊以男子爲主
漢末倭人亂攻伐不定 乃立女子爲王名曰彌呼
宣帝之平公孫氏也其女王遣使至帶方朝見
其後貢聘不絶 及文帝作相又數至 泰始初遣使重譯入貢 」
なお、「漢末倭人・・・~・・・帶方朝見」部分を和文に翻訳すると次のようになります。
「漢の末、倭人亂れ攻伐して定まらず。乃ち女子を立てて王と爲す。名を彌呼と曰う。
宣帝の平ぐる公孫氏也。其の女王、使を遣し帶方に至り朝見す。」
倭人と倭国を説明する文章のなかで、卑弥呼(彌呼)の名が出てきます。その卑弥呼は、女子で、宣帝が平らげた公孫氏である、と。
「卑弥呼は公孫氏なのだ!」ということが明らかに分ります。
ともかく、卑弥呼が宣帝や公孫氏の近隣地域にいたことは確実である!このことは間違いなく読み取れます。
『魏志倭人伝』でも、卑弥呼の使いが、いとも簡単に、何度も帯方郡や魏国を訪問していると書かれているし、魏国の使者も、気楽・気軽に邪馬台国を訪問している。と読めます。
ようするに、邪馬台国も卑弥呼も、日本列島の伝聞ではなく、海の向こうの話だった!ということですね。(そもそも、当時の日本列島の住人達は“文字”をもっていなかった?)
さて、「卑弥呼は公孫氏である!」という問題ですが、これは、卑弥呼が日本とは関係の無い存在、という意味に読解すべきではありません。
《卑弥呼の使者は、必ず『馬韓』に寄ってから帯方郡に行く、この『馬韓』は、『殷』の末裔が国王になったこともある大変な国際国家だった。》ことに注目する必要があります。そして、『馬韓』は、常に “馬韓・弁韓・辰韓の王”、つまり “辰王” だったことです。そして、卑弥呼は、この『馬韓』において 「鬼道」 を学び修得した可能性が高いということです。
もちろん、卑弥呼の係累である公孫氏の強力な軍事力も背後にあったのですが、「倭の大乱」をピタッと収めた“力”というのは卑弥呼の「鬼道」!だったということです。
ではこれは、いったい何なのか?
結論的になりますがそれは、ツラン・ツングース=シャーマン・ツングースの霊媒(シャーマニズム)。つまり“霊力”だとのことです。
これは、後の“日本の天皇制の儀礼”につながっている。ということは言っておきますね。。。
第64回南山塾(10月28日(月))が“「日本源人」~神武天皇は沖縄で生まれた~”の報告会として催うされることから、その予習の意味で投稿させていただいています。
前回の最後に於いて、「卑弥呼の「鬼道」!・・・それは、ツラン・ツングース=シャーマン・ツングースの霊媒(シャーマニズム)。つまり“霊力”だとのことです。これは、後の“日本の天皇制の儀礼”につながっている。」と述べました。
この日本の天皇制の儀礼と卑弥呼の「鬼道」シャーマニズムについて見ていきたいと思います。
故飯山一郎氏は、天皇家と日本民族の根底にあるものこそ、シャーマニズムであると喝破していました。
2009年4月19日付で自身のHP『てげてげ(大概大概)』に『天皇制誕生前夜のクロニクル』と題して投稿しています。(※クロニクルは、英語のchronicleで年代記.編年史のこと)
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古代朝鮮には、馬韓、辰韓、弁韓という国があった。いわゆる 『三韓時代』 である。
この 『三韓』 は、いわば競合関係にあった。対立もしていた。
もし、対立が深まり、戦争前夜のような深刻な事態になると、『辰王』が仲介に入った。
『辰王』 とは、現在のタイ国の 『プーミポン国王陛下』 のような存在だと思っていい。
タイ国では、正式に 『プーミポンアドゥンラヤデート』 と お呼びしなければならない。
『プーミポンアドゥンラヤデート』 とは 「大地の力・並ぶ事なき至高の権威」 という意味である。つまり、「最高権力」 ではなく、「最高権威」 である。この点、注意されたい。
三韓時代の 『辰王』 は、必ず 「馬韓国」 の王が即位した。
『辰王』 は世襲制であり、首都は 「月支国」 にあった。
『辰王』 は “鬼道” に優れ、“鬼道” によって三韓を支配下においていた。
この “鬼道” は、自然崇拝・精霊崇拝(アニミズム) に近かった。
『辰王』 の “鬼道” は、日本の古神道や “卑彌呼の鬼道” に近いと思っていい。
なお、卑彌呼 (の使者) が帯方郡を訪れる際、“馬韓国” は通過地だった。
さて、突然…、『辰王』 の統べる “馬韓国” に “侵入”してきたのは“扶余国” の残党であった。
“扶余国” は、ツングース族の末裔である。
ツングース族の王も、“鬼道” に優れた “草原のシャーマン”(巫師)であった。
“シャーマン” とは、ツングース語の「šaman、シャマン」から派生してきた言葉だ。
“扶余国のシャーマン” は、“馬韓国の辰王” の地位を奪い、やがて、帯方郡の故地に新しい国家を立ち上げる。これが 『日本国』 の先祖 『百済国』 である。
したがって…、『百済国』とは、“馬韓国” のアミニズムを吸収したシャーマニズムの国家なのである。
ここで…、これまでの物語を大雑把にまとめてみよう。
卑彌呼の邪馬壹国が参内した帯方郡で、馬韓と扶余が合流し、百済国となり…、韓半島まで東遷 (東征) し、百済国が滅びると、日本に渡来してきた百済人。
百済人の血は、馬韓人と扶余人と卑彌呼のDNAが渾然一体となった血脈で…、この血流の一貫性こそが、万世一系の神話なのである。
ちなみに “馬韓国” は、帯方郡の南にあった。
現在の平壌は、当時の “馬韓国” の南端部に位置している。
まさしく、“不思議に満ちた地政学” である。
【参考文献】 『三国志魏書』扶余国伝、『三国志魏書』馬韓伝、『後漢書』馬韓伝、『晋書』馬韓伝、『北史』百済伝、『唐会要』百済伝、『通典』百濟、『隋書』百済伝、『周書』百済伝、『梁書』百済伝、『宋書』百済伝。
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「百済国が用いた国家統合と国家経営の秘儀」。
これは、いったい、どんな秘法なのか?
結論を急ごう。いや、ズバリ結論を言おう。
1.権力や武力ではなく権威
2.シャーマニズム(神の言葉)
3.民の仕合せを願う祈りと祈祷術
4.国民を統合する神話づくり
5.国民と運命をともにする覚悟
これはずばり、「天皇制」である。
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天皇制成立の根幹に道教あり
中国では、西北の方向は異民族が攻め込んでくる方向だ。そのため、この方向には戦争に強い道教の守護神である“大将軍”が祭られる。これが“将軍塚”である。(この“大将軍”、現在は、平安京の御所の西北隅に当るあたりに町名として残っているだけである。)
さらに平安京と道教の関わりを述べると、例えば上皇のお住いである“仙洞御所”。これは完璧に道教の用語である。 皇室の先祖を祭る宮殿である“神宮”も、京都御所の“紫宸殿”も、その中央に置かれている“高御座(たかみくら)”も、全て道教の用語である。
“天皇”という言葉自体、本来は道教の神学用語なのである。道教の最高神である天皇(天皇大帝)は、その神聖性の象徴として二種の神器を持つとされる。そして、この二種の神器とは、鏡と剣である。
こうして考えてくると、天皇制は、その成り立ちの根幹に道教あり、と断言しても差し支えないと思う。(この解釈は、「道教は日本には渡来していない」し、「天皇家の奉ずる宗教は神道と仏教である」とする「世の常識」には反する考え方である。)
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過去にあり、現在もあり、未来においてもあるであろう皇統の世界の深層とは、世間一般で思われているような底の浅いものではない。この我々の想像が及ばぬ“シャーマンとしての天皇にしかなしえない祈りを通した権威”によって保たれてきたのか。
ご参考までに以下は高橋とみよ女史の言葉です。
「天皇陛下としての本来のお仕事は祭祀に始まり祭祀に尽きると言っても過言ではないのです。」
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