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円仁(慈覚大師)のこと(市民大学) [歴史]

9月3日、令和4年度市民大学がスタートしました。第一回は佐藤庄一運営委員長(山形考古学会顧問)の「比叡山と高野山ー最澄と空海の歩みー」。

円仁木像.jpg円仁.jpeg講師も調査に関わってきた山寺立石寺関連で、天台宗3代座主慈覚大師(円仁)の話がとりわけ興味を惹かれました。

⑷山寺の入定窟木棺と円仁の肖像 山寺は昭和7年(1932)に、国の名勝及び史跡の指定を受けているが、昭和24年に、慈覚大師円仁の遺体が安置されているとの伝承に基づき、山形県文化遺跡保存会によって立石寺開山堂下の入定窟の学術調査が行われた。場所は、山寺の開山堂の東側にある納骨堂下の崖になる。窟の中に金の棺が納められていて、中に2体分の火葬骨と3体分の非火葬骨、ほかに等身大の頭部彫刻、(建長8年1258)銘の梵字を記した小型木製塔婆、阿弥陀経その他経巻の紙片、梅の実などが納置されていた。/この時の調査で、木棺の端、頭に当たる部分から木彫りの頭部像が出土し、これまで慈覚大師円仁のものでないかとされてきた。/これについて、他にある円仁の肖像と比べてみます。右側が長寛元年(1163)年の滋賀県石山寺で図写した慈覚大師の高僧図画像である。東北芸術工科大学の長坂一郎さんは、長寛元年の高僧図と比べると、長い眉や頬から顎にかけての丸みのある形、額のしわの数など細かい所まで似ており、この頭部像は円仁の肖像として間違いないとしている。》

円仁遺骨の頭部は比叡山横川の円仁廟に葬られ、その代わりの木像と思われるとのこと。立石寺入定窟に頭骸骨が無い理由は(想像ではあるが)、円仁が比叡山慈叡房で入滅した時、その遺骸は取り敢えず付近の華芳御廟に一時葬られたが、 その後彼の遺言を尊重した弟子達が嘗て彼が東北地方を巡錫した際に開いた立石寺に、その遺骨を移したものと考えることが出来る。》http://seitengrat.sakura.ne.jp/jikakudaishibyo.html

つぎに、「不滅の法灯」の話も興味深い。
不滅の法灯 .jpg⑸比叡山の「不滅の燈明」 比叡山根本中堂の灯は「不滅の法灯」と言われ、1200年間消えたことがないと言われているが、実際は織田信長による1571年の比叡山焼き討ちによって一度途絶えている。実は山寺の立石寺についても、この45年前の1525年に、天童氏の攻撃で立石寺の堂舎ことごとく破壊され、比叡山からもらった法灯が消滅するという事件が起きている。この時は最上義光の父義守も御母の尽力を得て、灯火を比叡山から再びもらうことになり、1543年に日本海航路を経て立石寺に戻っています。/この事は比叡山でも知っており、今度は同じ比叡山からとった山形県の山寺の灯明を比叡山に移して再興してもらおうということになり、比叡山正覚院豪盛から立石寺への依頼文書も山寺に残っている。これで比叡山根本中堂の灯は「不滅の法灯」ということになった。》

もうひとつ、奥山寺の阿弥陀堂発掘調査の話もあったが、電話があって肝心なところを聞き逃したのであらためて。

ライシャワー氏の「円仁 唐代中国への旅(講談社学術文庫)が書棚にあった。2016年9月の購入。なぜ買ったのかどうしても思い出せない。

 





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