放知技板で猿都瑠さんが、一昨日(8/15)の「ゾンビ企業淘汰」のチャンス(星岳雄東大教授)の記事をとりあげ、《農作物を新自由主義やらグローバル経済などに含めるのが誤り》として、国家として農業をどうするのかを安全保障の一環として、政治で枠組みとビジョンを決定する必要がある》と論じられています。同感です。

リーマンショックの時、幼稚園の卒園文集にこう書いていました。《経済面だけを見ると、とんでもない大変な時代になっています。でも「お金万能」という思い込みから目が醒まされようとしているのではないかと思い直すと、また別の世の中が見えてきそうです。/ある時、食卓に並んだものを見ていたら、買ったものより貰ったものの方が多いことに気付きました。もちろん、貰いっ放しというのではなく、こちらからも何かをあげているはずです。そこにはお金のレベルではない、人と人とのつながりによる物のやりとりがあります。/「相手に喜んでもらえる」ということを第一義にしたお金抜きのおつきあい、食卓に並ぶ貰いものはその表れともいえます。そこには「助け合い」という隠し味も加味されているかもしれません。都会はいざしらず、この辺にはそういう人間関係がまだまだ健在です。/考えてみれば、人間の社会生活はまず、あげたり貰ったりから始まっています。お金が出て来たのはずっと後のことです。ましてお金自体が目的のよう思い込む世の中になったのはごく最近のことです。その挙句が今回の金融危機なのです。私には、本来の人間関係が息を吹き返すチャンス到来のように思えてなりません。お金が大変になればなったで、それぞれの紆余曲折を経ながらも、かえって人間本来の社会生活に戻ってゆく、そんな気がするのです。/金の切れ目が縁の切れ目とよく言われてきました。しかしこれからの時代は逆に、経済的に厳しくなればなるほど絆(きずな)が強まるような、そういう時代にならざるを得ないような気がします。なぜなら、助けを求めざるを得ない人がこれからどんどん増えてくるはずですし、また困っている人には助けてあげたいというのが人間として自然だからです。そして、決して助けっぱなしでもないし、助けられっぱなしでもありません。長い目で、広い視野で見ればきっとお互い様です。だから、助けてあげたからといって恩着せがましくふるまう事もないし、助けてもらったからといって卑屈になることもありません。みんな自然にそうしてしまう、いずれそういう温かい世の中になる、そのための禊(みそ)ぎ、試行錯誤の時を迎えているように思えます。》(『光の子ども』2009.3)コロナ禍の今にもそっくり当てはまります。農業を「おカネ感覚(経済)」の軛(くびき)から解放してやらねばならないのです。

猿都瑠さんの ①《精神的に何かしら持った人たちを積極的に登用する仕組みを政治が作る必要》、②《農作物を作って自給自足した上で、自国生産分を作って貰えばいい》、この二つは、今後の農業を考える上でものすごく重要な提案に思えます。①で思ったのが、農業ではありませんが、南陽市の地域活動支援センター「花工房」の取り組み。医療法人公徳会とタッグを組んで縫製作業をやっていますが、採算性を考えるととてもできないオリジナル製品を生み出しています。②で思ったのが自家農園、家庭菜園。有効利用できる土地はまだまだあります。テレワークで時間も生まれます。生産から流通まで政策的支援システムをつくることで、食糧自給の実際的底上げが可能になります。コロナ禍で何か思ったのか、息子がほんの試しに植えてみたトマトとナスとキュウリとピーマン、それなりに収穫期を迎え、ささやかな喜びを味わえる毎日です。おのずと自然への感謝の念も湧いてきます。

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