講義「病気の本質」 (1908年)より ルドルフ・シュタイナー
一般に人間は、病気になってはじめて病気のことを気かけるものです。そして、病気になったとき、なによりも病気が治ることに関心を持ちます。
病気が治ることが問題なのであって、「どのように」癒されるかということはどうでもいいと思っています。現代人の多くはそのように考えています。
今日では、宗教より医学の領域に、権威への信仰が見られます。医学的な権威者の有する権限は大きく、将来さらに大きくなっていくでしょう。
このような現状は、一般人に責任がないとはいえません。病気で苦しんでいないと、このようなことについて真剣に考えないからです。
医学的な権威者がさまざまな事柄、たとえば子供の教育や学校生活について語るのを、人々は平静に聞いています。その背後にどのような事柄が存在するのかを、気にかけていないのです。
病院がどのような法律によって作られるかというようなことを、人々は傍観しています。
人々は、そのようなことに真剣なまなざしを向けようとしません。
通常の唯物論的な医学では治らない人々も、なぜそうなのかを深く考えず、ただ治るかどうかを気にしています。
神秘的な治療法に頼る人々も、なぜそうかを深く考えず、ただ治るかどうかを気にしています。
…単に利己主義的な治癒への欲求だけではなく、病気と治療に関して、その深い原因を認識し、その認識を広めることが、ほんとうの精神運動の課題です。
今日のような唯物論の時代には、病気についての教義が唯物論的な思考方法の大きな影響を受けています。ある方法を特別のものだとすると、道を誤ります。
また、自然科学的な基盤に基づいており、さまざまな点で有効でありながら、唯物論的な理論を付加されたものを、単に批判すると、道を誤ります。
すべてを心理治療に抱合しようとすると、大きな偏りに陥ります。
人間は複雑な存在であり、人間に関するものはすべて、その複雑さと関係するということを、なによりも明らかにしなければなりません。
人間が単に肉体からなる存在であると見るなら、治療をすることは不可能になります。健康と病気は、肉体だけに関することではなく、人間の心と精神にも関係しています。
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同じくIn Deep氏によって知った山本七平氏の文章。
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『ある異常体験者の偏見』(1973年)より
原則は非常に簡単で、まず一種の集団ヒステリーを起こさせ、そのヒステリーで人びとを盲目にさせ、同時にそのヒステリーから生ずるエネルギーが、ある対象に向かうように誘導するのである。
…そして、それが世の常識となる。するともうどうにもならない。動かすことも、ゆるがすこともできなくなる。
すると人びとはその不動の常識によりかかっていた方が楽だから、そこで思考を停止し、他に規定された判断をそのまま自分の判断とし、そしてその常識なるものに反対するものは自分の方から排除してしまう。ひどい時には村八分にしてしまう。従って事実を知っている者はみな沈黙する。
いったんそうなると、もういいも悪いもない。その常識という虚構の上に順次に虚構が積み重ねられていき、しまいにはどんな誇大妄想狂も口にしないようなことを言っても、人びとは何の抵抗もなく受け入れてしまう。