副島重掲板、副島氏の参政党批判をどう受け止めるか。


《神谷 宗幣(かみや そうへい)という日本の統一教会の幹部だった男は、たぶん、この4男坊派だ。こいつが、今の参政党(さんせいとう)という気色の悪い政党を作った。/参政党に期待する、みたいな、馬鹿なことをここに書いている、学問道場に来ている、者たちは、自分自身の頭を、3発ぐらい、思い切り、叩いて置け。まだ、分からないのなら、どこか他所に行きなさい。 お前たち程度の頭(知能)では、政治の大きな動きは分からないで、すぐに騙される。馬鹿ども。その単純な正義感をした頭を、私、副島隆彦は、あきれ返っている。私が、いくら言っても聞かないのだ。// これと、維新の会も、別の分裂した、統一教会の派閥(セクト)である。 神谷は、維新の会にもいたのだが、そこから、分裂して自民党から選挙に出たりしてから、参政党を作った。》


ほとんど私に向けられたもので、3発ぐらい自分の頭を叩いてみても分からないのだけれども、他所には行きません。いくら言っても聞きません。面と向かって言われたのなら、いろいろわだかまりも貯まろうけれども、こうしたネットでの言論のやりとりは、冷静になれることで見えないものが見えてくる。真っ向からこんなに言っていただけるのはひたすらありがたい。


かつて副島氏からは「廊下ひばり」と叱られたこともありました。→https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2006-06-11 16年前のことでした。副島氏激昂の理由は今回と同じです。一貫しておられます。私も私なりに一貫しているつもりです。


副島氏とのやりとりで、「わかってもらってない」と思わされたことがありました。メルロー・ポンティについての理解です。私がフッサールの流れを汲むメルロ―・ポンティは、デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」に対して、「われなし能う、ゆえにわれあり」と言います。私はこれはすごい言葉だと常々思っているのですが、まだ教科書に載るまでは普及していないようです。教育もデカルト的主知主義(「思うわれ」を主体として、知ることが基本)では全くの片手落ちで、「できるようになることが基本」を原理にしなければならないと思うのです。教育の原理見直しが必要であるゆえんです。/ メルロ―・ポンティは、「私が思う以前に、先ずもってみんなと共に生きている」と言います。そこから見れば、「思うわれ」なんて後からの理屈づけにすぎません。ところが今の世の中では、(きっと教育の結果)「思うわれ」の方が本来の自分であって、「現に生きている自分」は仮の姿のように思い込んでしまっているのではないでしょうか。みんな蛸壺の中にいるときがいちばん安心できるように思いこんでしまっているのです。 》と書いたのに対しての返答は、《副島隆彦です。/ 「4014」のめい氏の、メルロ・ポンティやフッサールの考えを使った主張をどうもありがとう。大筋で分かります。ただし、ちょっと時代が古いですね。「フッサールからポンティへ」の議論は、70年代に、「日本の現代思想」として流行ったものです。「ハイデガーからサルトルへつながった経路」との対比で、玄人(くろうと)筋に受けた議論です。・・・》そうか、副島氏は「学者の世界」で生きておられる、と理解したのでした。(https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2006-06-03


しかしいずれにしても、副島氏は私にとって大事な人なので、たとえあきれかえられても他所にはゆきません。そんなわけで、今日は大事な選挙の日です。副島氏の見方は見方として、私の考えは変わりません。


*   *   *   *   *