・宮内の食文化を全国に広めた酒井佐和子 酒井佐和子は明治40(1907)年、宮内町柳町に生まれました。名前は近野ツネヨ。母が病弱のため父方の祖母に育てられました。食の原点は、ばばちゃの料理でした。13歳のとき相次いで両親を亡くした後、亡姉の夫との結婚話を嫌い、戸沢村古口の母の実家「旅屋亀屋」に家出同然で逃れます。その後、福島県郡山市の旅館の養女となってそこを定宿とする東京からの出張員と初恋結婚、生涯の伴侶となります。17歳の時でした。
東京での新婚生活のある日、夫の同業の家庭でご馳走になった炊きたてのご飯と味噌汁と白菜の漬物の美味しさが、佐和子にとっての「料理開眼」でした。手伝いながら覚えていたばばちゃの料理、その舌の記憶は確かです。いつしか出張から帰った夫が、「どこの料理よりおいしい」とほめてくれるようになっていたのです。
昭和27(1952)年東京日本橋に、漬け物を主体にお茶漬けと山菜料理の店『こけし』を出店。本人も予想しなかったほどの大評判で、知名人のお客も多く、活字・電波の世界に引っ張り出されることになります。昭和42年から、宮内弁丸出しでNHK「きょうの料理」にレギュラー出演、そのキャラクターを買われて『花吹雪はしご一家』(TBS 昭和50〜51年)のレギュラーもつとめます。また書いた本は13冊にのぼり、佐和子を育てた宮内の味を今も世界に発信し続けています。最初の著作『山の味 里の味』(昭和31年)は、古書価格28、000円の値がついています。
佐和子は、昭和天皇の植物研究のお相手も務めた東京大学名誉教授本田正次博士を南陽に案内しています。博士が、オカヒジキを初めて『こけし」で知ったのがきっかけでした。この時、大銀杏と妹背の松に見ていただきました。その時のことを『宮内小学校百年のあゆみ』に書いています。
《相生の松へご案内したところ、松は半分ほど赤葉になって枯死寸前の姿でした。先生はこんな立派な松を手当てもしない町当局も悪い。天然記念物に指定するにふさわしいといわれ、早速山形市教育長をしておられた結城(嘉美)先生に連絡して、どこにもない珍木だからといって、ぜひ天然記念物に指定のできるよう手続きをお願いしました。すぐ県庁から人夫が来て木の根を消毒してくれたり、町の婦人会の方々が酒をたっぷりのませてくれたりした効が奏して、半年後(昭和31年)には記念物に指定され、新葉も元気よく出て、みごとに蘇生した写真を結城先生から送られてきたときは、とび上がるほどの嬉しさと喜びを感じたものでした。それから後は帰省ごとに松の姿を見るのが楽しみの一つになっています。》
妹背の松が今も元気なのは、酒井佐和子さんのおかげといえます。
東京での新婚生活のある日、夫の同業の家庭でご馳走になった炊きたてのご飯と味噌汁と白菜の漬物の美味しさが、佐和子にとっての「料理開眼」でした。手伝いながら覚えていたばばちゃの料理、その舌の記憶は確かです。いつしか出張から帰った夫が、「どこの料理よりおいしい」とほめてくれるようになっていたのです。
昭和27(1952)年東京日本橋に、漬け物を主体にお茶漬けと山菜料理の店『こけし』を出店。本人も予想しなかったほどの大評判で、知名人のお客も多く、活字・電波の世界に引っ張り出されることになります。昭和42年から、宮内弁丸出しでNHK「きょうの料理」にレギュラー出演、そのキャラクターを買われて『花吹雪はしご一家』(TBS 昭和50〜51年)のレギュラーもつとめます。また書いた本は13冊にのぼり、佐和子を育てた宮内の味を今も世界に発信し続けています。最初の著作『山の味 里の味』(昭和31年)は、古書価格28、000円の値がついています。
佐和子は、昭和天皇の植物研究のお相手も務めた東京大学名誉教授本田正次博士を南陽に案内しています。博士が、オカヒジキを初めて『こけし」で知ったのがきっかけでした。この時、大銀杏と妹背の松に見ていただきました。その時のことを『宮内小学校百年のあゆみ』に書いています。
《相生の松へご案内したところ、松は半分ほど赤葉になって枯死寸前の姿でした。先生はこんな立派な松を手当てもしない町当局も悪い。天然記念物に指定するにふさわしいといわれ、早速山形市教育長をしておられた結城(嘉美)先生に連絡して、どこにもない珍木だからといって、ぜひ天然記念物に指定のできるよう手続きをお願いしました。すぐ県庁から人夫が来て木の根を消毒してくれたり、町の婦人会の方々が酒をたっぷりのませてくれたりした効が奏して、半年後(昭和31年)には記念物に指定され、新葉も元気よく出て、みごとに蘇生した写真を結城先生から送られてきたときは、とび上がるほどの嬉しさと喜びを感じたものでした。それから後は帰省ごとに松の姿を見るのが楽しみの一つになっています。》
妹背の松が今も元気なのは、酒井佐和子さんのおかげといえます。
・雲井龍雄誕生の日に描かれた絵 幕末から明治への節目となるのが、奥羽列藩が長州薩摩と戦った戊辰戦争でした。奥羽列藩の気持をひとつにしたのが、薩摩の非道を訴えて名文の誉れ高い雲井龍雄の「討薩檄」でした。官軍の前に虚しく散った後、龍雄は行き処を失った浪士救済に奔走します。しかし、新政府に対する謀反の嫌疑を受け、明治3(1871)年、27歳で刑場の露と消えることになります。
それから数年後、自由民権運動の中で、残した多くの詩とともに、龍雄の志が甦ります。明治天皇もその詩を愛し、今も日本人の魂を揺さぶり続けます。とりわけ「辞世」は、牢外で聞く曽根俊虎に向けた詩とも言われます。(尾崎周道『志士・詩人 雲井龍雄』)俊虎は龍雄の意を受けて、宮島誠一郎とも意を通じつつ、支那へ、アジアへと勇躍することになります。日本で最初のアジア主義機関「興亜社」を設立、宮崎滔天と孫文を引き合わせる役割を果たしたのが俊虎でした。その源流に雲井龍雄の思い、志があるのです。
雲井龍雄は天保15年3月25日(1844年5月12日)の生まれ、本名小島龍三郎。辰年の壬辰の日、辰の刻に生まれたゆえの龍三郎でした。いくつかの変名を持ちますが、25歳の慶応4年(1868)から用いた「雲井龍雄」が最も有名です。「雲井」は、龍雄の師安井息軒の「今はただ忍ヶ岡の杜鵑(ほととぎす)いつか雲井に名をや揚げなん」に由来すると思われます。
実は龍雄誕生のまさにその日画かれた雲龍図が、粡町髙岡家にあります。描いたのは目賀多信済です。信済は、天明6(1786)年に藩主の身の回りの世話をする小納戸役の矢嶋欽右衛門長寄の三男として生まれ、上杉藩御用絵師目賀多信與の養子となって雲川と号します。豪放にして酒を好み、気宇高邁、興が湧き、意に適したときにのみ筆を執ったと伝わります。好んで竜を描いたが、壬辰(みずのえたつ)の日に筆を執り、雨が沛然として雷鳴の轟く日を選んで点睛したといわれます。右の絵には「天保十五年孟春壬辰」と記されています。龍雄の生まれた日がその日でした。
平成16(2004)年、米沢市で歴史研究家岡田幹彦氏による「詩魂、甦れ!雲井龍雄伝」と題する講演会が開催されました。その時の資料表紙の絵が、その「雲龍図」だったのも不思議なことでした。
それから数年後、自由民権運動の中で、残した多くの詩とともに、龍雄の志が甦ります。明治天皇もその詩を愛し、今も日本人の魂を揺さぶり続けます。とりわけ「辞世」は、牢外で聞く曽根俊虎に向けた詩とも言われます。(尾崎周道『志士・詩人 雲井龍雄』)俊虎は龍雄の意を受けて、宮島誠一郎とも意を通じつつ、支那へ、アジアへと勇躍することになります。日本で最初のアジア主義機関「興亜社」を設立、宮崎滔天と孫文を引き合わせる役割を果たしたのが俊虎でした。その源流に雲井龍雄の思い、志があるのです。
雲井龍雄は天保15年3月25日(1844年5月12日)の生まれ、本名小島龍三郎。辰年の壬辰の日、辰の刻に生まれたゆえの龍三郎でした。いくつかの変名を持ちますが、25歳の慶応4年(1868)から用いた「雲井龍雄」が最も有名です。「雲井」は、龍雄の師安井息軒の「今はただ忍ヶ岡の杜鵑(ほととぎす)いつか雲井に名をや揚げなん」に由来すると思われます。
実は龍雄誕生のまさにその日画かれた雲龍図が、粡町髙岡家にあります。描いたのは目賀多信済です。信済は、天明6(1786)年に藩主の身の回りの世話をする小納戸役の矢嶋欽右衛門長寄の三男として生まれ、上杉藩御用絵師目賀多信與の養子となって雲川と号します。豪放にして酒を好み、気宇高邁、興が湧き、意に適したときにのみ筆を執ったと伝わります。好んで竜を描いたが、壬辰(みずのえたつ)の日に筆を執り、雨が沛然として雷鳴の轟く日を選んで点睛したといわれます。右の絵には「天保十五年孟春壬辰」と記されています。龍雄の生まれた日がその日でした。
平成16(2004)年、米沢市で歴史研究家岡田幹彦氏による「詩魂、甦れ!雲井龍雄伝」と題する講演会が開催されました。その時の資料表紙の絵が、その「雲龍図」だったのも不思議なことでした。
・宮内公民館に眠っていた宮島大八(詠士)の書 平成30(2018)年7月9日、宮内公民館に眠っていた貴重な書が発見されました。「火然泉達」という宮島大八(詠士)の書です。裏面にはこうありました。
宮島大八先生之書
米沢出身 名は大八 詠士又は勗斉と号す/豊富な学識と崇高な人格 真に「東洋の君子」というべきである/昭和十八年七月九日逝去 享年七十七歳
扁額 火然泉達
自分にある「四端(心に兆す徳の芽生え)」を発展拡張していくことを知る者は誰でも、おこした小さな火がやがて大火となり新しく掘った井戸がやがてどんどん水を噴出すように仁義礼智の道を奥へ奥へと進んでいく(孟子)
この得難い書は山口町長の心尽しによって昭和三十五年庁舎落成記念当館に掲げられたものである
発見されたその日は、宮島詠士の七十六回忌 の祥月命日でした。
宮島大八(詠士)は、宮島誠一郎の次男として米沢に生れました。父誠一郎は幕末の動乱を生き抜いて新政府に出仕、宮内省御用掛として明治天皇に親しく仕えた人物です。11歳で父の勧めで勝海舟の門に入り、20歳で中国に渡って書法家張廉卿に7年間師事、その書法を究めます。帰国後中国語塾善隣書院を開き、院長として日中親善のために尽くしました。
詠士の書の愛好家は多く、戦後言論界・政界の重鎮だった緒方竹虎は「いままで、いろいろの書幅を座右にしてきたが、わたくしの魂を洗い尽してくれたものは、しょせん宮島先生の書ひとつであった。以来毎朝、先生の書の前に端座、その香気に対すると、不思議と政治に挺身する信念と勇気が湧いてくる。」と語りました。
大正8(1919)年のパリ講和会議において、日本代表の牧野伸顕が、国際会議では最初となる人種的差別撤廃を提案しましたが、この提案を牧野に入れ知恵したのが宮島詠士でした。また、東京裁判でただ一人日本の立場を理解したパール判事による「大亜細亜悲願之碑」(広島市本照寺) は、詠士による揮毫です。
宮島大八先生之書
米沢出身 名は大八 詠士又は勗斉と号す/豊富な学識と崇高な人格 真に「東洋の君子」というべきである/昭和十八年七月九日逝去 享年七十七歳
扁額 火然泉達
自分にある「四端(心に兆す徳の芽生え)」を発展拡張していくことを知る者は誰でも、おこした小さな火がやがて大火となり新しく掘った井戸がやがてどんどん水を噴出すように仁義礼智の道を奥へ奥へと進んでいく(孟子)
この得難い書は山口町長の心尽しによって昭和三十五年庁舎落成記念当館に掲げられたものである
発見されたその日は、宮島詠士の七十六回忌 の祥月命日でした。
宮島大八(詠士)は、宮島誠一郎の次男として米沢に生れました。父誠一郎は幕末の動乱を生き抜いて新政府に出仕、宮内省御用掛として明治天皇に親しく仕えた人物です。11歳で父の勧めで勝海舟の門に入り、20歳で中国に渡って書法家張廉卿に7年間師事、その書法を究めます。帰国後中国語塾善隣書院を開き、院長として日中親善のために尽くしました。
詠士の書の愛好家は多く、戦後言論界・政界の重鎮だった緒方竹虎は「いままで、いろいろの書幅を座右にしてきたが、わたくしの魂を洗い尽してくれたものは、しょせん宮島先生の書ひとつであった。以来毎朝、先生の書の前に端座、その香気に対すると、不思議と政治に挺身する信念と勇気が湧いてくる。」と語りました。
大正8(1919)年のパリ講和会議において、日本代表の牧野伸顕が、国際会議では最初となる人種的差別撤廃を提案しましたが、この提案を牧野に入れ知恵したのが宮島詠士でした。また、東京裁判でただ一人日本の立場を理解したパール判事による「大亜細亜悲願之碑」(広島市本照寺) は、詠士による揮毫です。
熊野神社の森を負い
置賜平野前にして
わが学校のあるところ
見晴らし遠く気は清し
よく学びよく よく勉めん
いざ いざ わが友
秋葉の山に吉野川
慶海山に三羽山(みはねやま 御羽山?)
わが宮内はうれしくも
眺め名どころ多き里
よく学び よく遊ばん
いざ いざ わが友
うれいあらそい かげもなく
つねに明るきわが里は
わが学校の窓ごとに
望み喜び輝けり
よく学び よく進まん
いざ いざ わが友
宮内小学校々歌は、大正11(1922)年、創立50周年を記念して作られ歌い継がれてきました。当時は製糸業全盛の時代、宮内が最も勢いのあった時代です。校歌依頼についての経緯についてはわかりませんが、当時最高のレベルを目指した依頼だったのだと思われます。
作詞の高野辰之(たかのたつゆき 1876~1947)は、長野県下水内郡の生まれ。この地は宮内宮澤城最後の城主尾崎重誉の前任地です。高野は文部省在職中に「文部省唱歌」を数多く作詞しました。『故郷(ふるさと)』『朧月夜』『もみじ』『春がきた』『春の小川』の『日の丸の旗』などです。
「憂い争い 影もなく」、この三番の歌詞には高野辰之の思いがこもっています。まだその意味もわからぬ幼い胸にこの言葉が染み込み、生涯にわたって心の底で響き続けてくれているように思え、あらためて感謝したくなります。
平成18(2006)年に文化庁とPTA議会が、親子で長く歌い継いでほしい抒情歌や愛唱歌「日本の歌百選]を選定しました。高野辰之が作詞した歌は、「朧月夜」「春の小川」「春が来た」「ふるさと」「もみじ」の五曲が選ばれ、野口雨情(『赤い靴』『あの町この町』『雨降りお月さん』『シャボン玉』『七つの子』)と並んで第一位です。(結城よしをの「ないしょ話」も入っています。)
一方、作曲の梁田 貞(やなだ ただし 1885〜〜1959)は、札幌の生まれ。生誕地である小学校に「楽聖梁田貞先生」像があり、こう記されています。
《「不世出の天才作曲家、梁田貞先生。その高潔なる人格より流れ出た、清らかにして美しい旋律は「城ヶ島の雨」、「昼の夢」、「とんび」、「羽衣」、「どんぐりころころ」、「沖の小島」など生田珠玉の名曲となって、明治、大正、昭和三大の音楽教育界に豊かな情趣を漂わせたことでした。人びとの魂をゆさぶり、魂にしみこんでゆく、これらの歌は永遠に愛唱さるべき不滅の宝であります。子供の心を深くつかんでの童謡、音楽を通しての芸術教育、将に音楽による厳しい人格教育、実に偉大なるマコトの音楽家でありました。(小原國芳)》
中川村生まれの吉田熊次(明治7(1874)年〜昭和39(1964 )年)と漆山村生まれの稲毛詛風(金七)(明治20(1887)年〜昭和21(1946)年)です。当時の義務教育は尋常小学校の4年間だけ、希望者だけ2〜4年間の高等科に進みます。二人は、地元の小学校に高等科がなかったので宮内で学んだのでした。
吉田熊次は、元中山の日影地区、蚕も飼う中農の生まれです。親の反対を押し切って、山形中学、一高を経て東京帝国大学文科大学哲学科を首席で卒業、母校の教授となって、日本の教育学界をリードすることになります。妻は恩師井上哲次郎(東京帝国大学文科大学長)の長女でした。
熊次は、「わが国教育学の育ての親」とも言われます。「孔子は何が善で何をなすべきかは教えるが、どうすれば善を行う人間になり得るかはわからない。善を知る人はあっても、善を行なわない人のなんと多いことか」と「国民道徳論」を提唱します、当時の日本にあって、教育学の根幹を「国民をどうしたら道徳的人間に育てることができるか」として、国定修身教科書の編纂や教育勅語の浸透に力を尽しました。上杉鷹山公は、細井平洲先生を関根普門院に出迎える「師を敬う」や、木綿の着物で一汁一菜の「倹約」の話によって、修身教科書で広く世に知られることになります。修身教科書への登場回数ランキングで鷹山公は明治天皇、二宮金次郎に次いで第3位です。熊次の、郷土の名君への厚い敬愛の念あってのことでした。 https://www.youtube.com/watch?v=6lDEXbk967w
稲毛詛風(金七)は、池黒の貧しい駄菓子屋に生まれました。宮内小学校高等科を卒業後すぐ、13歳で宮内小の代用教員になります。金山小や上伊佐沢小で教員を務めたのち、漆山地区の有力者たちからの援助を得て早稲田大学文学部哲学科を卒業。中央公論社等で評論活動、30代には自費でドイツに渡って、ベルリン大学で哲学と教育学を研究します。帰国後、早稲田大学で研究、「教育哲学」で文学博士となって、生涯60冊を超える著作を残しました。
詛風は、人間だれしも本来持つ「創造性」こそが生活向上の動力源であるとし、教育の第一はその「創造性」を育てることという『創造教育論』を展開提唱、明治の画一的教育から、自由な大正デモクラシー教育への橋渡しの役割を果しました。宮内小学校教師として、須藤克三、芳武茂介、小田仁二郎、黒江太郎といった多くの人材を輩出させた田島賢亮先生も漆山村生れ、郷土の先輩詛風の影響を受けていたにちがいありません。
小学校の恩師である橘先生に宛てた5mもある毛筆の長い手紙が残っています。文豪山本有三(1887〜1774)は早稲田大学の後輩同僚で、山本の代表作『路傍の石』の主人公愛川吾一のモデルとも言われています。