三都住さんの「タイムカプセル理論」https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2022-04-16 のつづきです。目先の喧騒から離れ、ともかくいったん肚に収めて、そしてあれこれ思わされます。


「廃仏毀釈」に反応しています。ただ現実に確認できることとして、明治維新後、廃仏毀釈が行われた。何の必要性があるのか合理的な説明を聞いたことがない。仏教僧は還俗され、寺院は廃され、日本仏教は壊滅的な打撃を受けた。一方、神社もそうだ。神社も統廃合が進められ、村や集落の社は廃され、統合された。宮崎や鹿児島に行ってみるといい。神社も寺も驚くほど少ない。/世界の例、日本の例からわかるのは、彼らは意図的にその国の精神文化を消し去ろうとしてきたことだ。なぜならそれこそがそこに住む人々の心の力の根源であるから。》ウイキペディアには、小西孝司によれば、2019年(令和元年)9月時点で鹿児島県内には『宗教年鑑』平成30年版の引用で481寺あるが、国宝や重要文化財の仏像は1点もないとしている[13](「廃仏毀釈」)とある。それに比べて、この地域はゆるかった。宮内熊野大社には阿弥陀如来、薬師如来、観世音菩薩の旧本尊が残り(熊野考古館)、梵鐘もあって今も朝夕時を報せている。獅子冠事務所の祭り前10日間の精進潔斎は仏式だ。→宮内熊野に探る「祭り」の意味 (8)」https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2014-12-21-4  一時は平田国学流に「不純さ」を思うこともあったが、今は素直にありがたいことだと思うようになっている。


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