ずっと気持ちが慌ただしかった昨年1年間、そして年の瀬だったが、いよいよ最後の大晦日だけは、開き直ったところもあってふとした心のゆとりが生まれてありがたい1日をすごして今朝になった。そうして迎えた新年、青空もほの見えた朝だった。
昨日は2時から大祓式、茅の輪くぐり、そして直会。帰って一眠りしてから、神さまにあげる餅をつくって、なんだかんだでバタバタしながら除夜の鐘と元旦一番祈祷参列へ。終わって全社参拝して1時過ぎに戻った。圧倒的に若い人が多い。あまり寒くないので例年より多い人の出。
マスクのせいもあって挨拶を交わす人とは誰にも会うこともない、というかお互い無視し合っているのか。おかしな世の中と思うが、それがあたりまえになりつつあるのを「怖い」と思うのが正常なのかどうかもわからなくなってしまっている。ほんとうにおかしな世の中になってしまった。
↓ 31日
↓は夜。31日〜1月1日
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昨日、ふとしたゆとりの気持ちから、気になっていた宮崎貞行著『 小泉太志命(こいずみたいしめい) 祓い太刀 の世界』(kindle版)を開いた。
《天皇は、敗戦の三年後、昭和二十三年の歌会始めに再び松の木の御製を詠まれて、注意を呼びかけようとされた。
冬枯れの寂しき庭の松ひと木色かへぬをぞかがみとはせむ
このころの天皇のご心境はまさに「冬枯れの寂しき庭」であった。頼りになるのは、冬の厳しさに耐えてひとり緑を残している松の古木のみであった。だが、天皇のご希望にもかかわらず、その意向は、学界、知識界や報道界には届かなかった。時流に乗って、格好良く生き延びることが彼らの最大の関心事であったのだ。「晩節を汚す」という言葉は、ほとんど死語になっていた。
しかし、幸いなことに、大方の民衆は、個人の自由権や国民主権を強調した成文憲法とは別の世界に生きていた。彼らは、学者や報道記者たちのように新憲法の時流を追わなくてもしっかり大地に根をはって生きていけたのである。民衆は、食糧難の時代に隣近所で食物を分け合い、戦争の被災者たちを助け合い、窮屈ながらも狭い町や村で譲り合いながら生活していた。日と月と土に感謝し、戦死者と祖霊を祀り、神々の助力を頼みながら懸命に生きていた。誠意ある言動や真面目な仕事ぶりは、評価されなくてもお天道さまがご覧になっていると信じていた。受けた恩は忘れず、必ずお返しをするという共同体の恩義の世界に住み、恩を施しても見返りを請求しないという伝統的な不文律に従っていた。民衆は、祖先から受け継いだ書かれざる掟の世界、いわば不文憲法の世界に住んでいた。亡くなった祖先の権利──良い伝統を尊重して引き継いでもらいたいと願う死者の権利を大事にしていたのである。》
小泉太志命は八戸の出身だった。安藤昌益が出てきた。
《昌益を読んでみて、その平等思想は、欧米のそれと全く異なることに小泉は気がついた。それは基本的人権という世俗的な個人主義に立脚したものではなく、もっと根本的な生命の躍動──「活真の気」と昌益が呼んだものを回復するためのものだったのだ。安藤昌益が観察した幕藩体制のもとでは、耕さないお上が下の民の産物を貪り、このため下は上を激しくうらやみ憎んでいる、こうして、上の邪欲と下の怨恨という邪気が毛穴から抜け、吐息から発し、人間本来の「活真の気」を汚し、世の中全体に「不正の気」が横行している。飢饉も戦争も、このような集合的な邪気がもたらしたものであると断じたのであった。邪気のわだかまりが人の健康を阻害しているばかりか、異常気象や内乱までも引き起こしていると医師らしい観察を下していたのである。/小泉は、昌益の鋭い観察に驚いた。まさに自分の考えを代弁してくれていると百年前の知己を得た思いでうれしくなった。》
そして、
《「歴史」は、いつの時代も、力の強い勝者の「物語」によって作られていく。おびただしい敗者の歴史は、消されたり塗り替えられたりしてきたのであった。それに異議を申し立てようとすると、勝者の側は「歴史修正主義者」というレッテルを強引に貼り付けるのだ。そのことは、賢明な昭和天皇もよくご存じであったが、黙って忍耐強く嵐の過ぎ去るのを待っておられた。やっと講和条約発効の日を迎え、昭和天皇は喜びの御製を詠まれている。
国の春と今こそはなれ霜こほる冬にたへこし民のちからに
長い冬に耐え、黙々と復興への道を歩んだのは、他でもない土に生きる民衆であった。泥臭い民の力であった。》
要するに、
《われわれが生きているのは「基本的人権」なるものを生来持っているからではない。われわれは遠い遠い昔からのご先祖や神々のおかげで生まれ、生かされているのである。その恩愛を思い起こし、忘れないでいることを民族の習慣としてきたのであった。親子の親密な関係を頭で論理的に考えるだけでは地球や宇宙の親神と一つになることはできない。一つになる近道は心の底からまず先祖代々のミオヤ心に感謝をすること、祖霊を祀り、感謝と奉仕の誠を捧げることを通じて、はるかなる地球と宇宙の祖神にいたることができる。そうすれば宇宙のオオミオヤから大いなる霊徳が自ずと注がれてくるのである。》
元旦に書き記すにまことにもってふさわしい一文でした。
【補足】
小泉太志命の霊剣によって、皇居爆撃に向かうB29は忽然と姿を消した。戦後においては志摩磯崎町にある伊雑宮(いざわのみや)の前にある剣道場(神武参剣道場)で、一日3万3千回真剣を振り続けた。その伊雑宮が、宥明長南社と同じ造りであるのに驚いた。宥明長南社造営にあたり、飛騨の渚工務店が参考にしたが他ならぬ伊雑宮の簡素な神明造だったのだ。思いがけない縁を思わされた。
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さて、中小企業庁の「がんばろう!商店街」事業に粡町商店街が応募した「卯年御縁年『幸せをよぶうさぎ』降臨祭」が採択なった。ここまでも大変だったが、これからがさらに大変。1月31日までの事業です。