『江戸の歴史は隠れキリシタンによって作られた』を読むでふれた『宝積坊マリア観音・雑記』(小関堅太郎)を南陽市立図書館から借りてきた。A5判34頁の小冊子で1991年発行。著者は元中学校校長で熊野大社総代長も務められた。たしか大正14年(1925)のお生まれのはず。亡くなられて10年ぐらい経っただろうか。

《先日、この由緒ある真言宗修験醍醐派、宝積坊の宝物殿に安置されているマリア観音像を親しく拝観する機会を得た。/当主岩船俊英師によれば、このマリア観音像は郷土出身の吉野石膏初代社長須藤永次翁の寄進によるものであり、翁は昭和23年に明治の元勲井上馨侯爵家より時価360万円で譲り受けたものであるという。》《条約改正をめざし欧化政策を推進したのは外務卿井上馨であった。この頃、彼はマリア観音を手に入れたという。》《翁より寄進された観音像は、当初長谷観音の御堂の中に安置されたが、後に現在の宝物殿に遷座された。遷座については当主岩船俊英氏のお話によれば、長谷の御堂にあったマリア観音像がある夜、永次翁の夢枕に表われた。以後翁は体調をくずされ、原因不明の病で床につく日が続いたという。俊英師は大いにこれを憂え、病魔退散の祈祷を行った。・・・「長谷観世音由緒」によれば、御堂は文政年間の火災焼失の後、藩主上杉斉定公の代に鬼門守護祈願所として文政10年(1828)御堂再建を許され、行基菩薩御作秘蔵の観音像を寄進安置された‥‥とある。同じ観音像とはいえ、違和感のあるマリア観音をこの由緒ある御堂に併置せしことはふさわしからずと反省し、山中の御堂より現在地宝物殿に遷座された。/これより翁の病は快方に向われ、めでたく全快されたという。

つまり、このマリア観音は、戦後まもなく須藤永次翁が井上馨侯爵家から譲り受け、当初長谷観音に安置されていたがその後宝積坊に遷された。井上馨は欧化政策鹿鳴館運動の立役者で、ウィキペディアには《外相時代の明治18年と翌19年(1886年)にキリスト教推進》ともあるのでマリア観音との結びつきに納得。また、井上侯爵家別邸が熱海市にあり今は「清光園」の名で宿泊可能な施設になっている。https://www.jalan.net/travel-journal/000063967/須藤永次翁の住まいも熱海。近くに佐佐木信綱邸があり、その縁で妻るいが門弟となっている。物資のない時代に羽振りの良かった須藤家が、佐佐木家を助けることも多かったようだ。同様に、井上家に対しても援助の意味もあってマリア観音を譲り受けたのではなかったか。「時価360万円」の「時価」が何を意味するかわからないが、当時としては破格であったにちがいない。