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東京・三重行(3)佐佐木信綱記念館 [吉野石膏]

孫とずっと遊んでいてもよかったのだが、せっかくここまで来たという思いもある。前回来たとき高速で松坂市を通りつついつか行きたいと思った本居宣長記念館を思い出した。1時間ちょっとで行ける。そのうち、そういえば佐佐木信綱記念館もこの辺ではなかったか、と思いついた。こっちは鈴鹿市にあって30分ぐらい。ぜひ行きたい。
信経記念館からの返信.jpg宮内よもやま歴史絵巻「佐佐木信綱と須藤るい」ができたのが7年前だが、その前に佐佐木信綱が宮内に来たかどうか知りたくて佐佐木信綱記念館に問い合わせ、ていねいな返答をいただいたことがある。それを今引っ張り出してみた。佐佐木信綱記念館の学芸員磯上知里さんからのもので平成19年12月27日とある。《「佐佐木信綱の歌集に歌碑の歌が掲載されているか、初期の歌か」という問い合わせについてですが、歌碑の歌については歌集に掲載されていないようで、初期の歌とも考えにくいと思われます。/歌碑建立当時に関する記述が、別紙資料参照ーー信綱主宰竹柏会機関紙『心の花』及び須藤るい遺構・追悼集『うしほの花』に掲載されており、それらを見ますと、須藤夫妻の依頼を受けてわざわざ作った歌ではないかと推測されます。/また、宮内には信綱の歌碑が4基ありますが、そのうちの琴平神社にある「ありし世に〜」の歌碑については、建立年等特定できるような資料が見あたらず、不明です。/その他の歌碑の建立当時・須藤るい氏の詳細については、別紙資料をお読みいただきたく、お願い申し上げます。》として、『心の花』『うしほの花』からのコピーが数多く添えられていた。受け取って電話したのだと思う。「宮内の歌碑についてははじめて知った。一つの町に4基もあるというのは他に例がない。いつかぜひ調査に伺いたい。」と言われた記憶がある。
藤岡喜美子壽賀宴.jpg送っていただいた資料から、須藤るいは昭和24年の春、「竹柏会」に入会。紹介者は藤岡喜美子氏。昭和25年新春号に「いしぶみ」と題する須藤三郎氏の歌二首。
水園にて.jpg《山形縣宮内町水園に於ける竹柏園先生の歌碑除幕式にて
水園の吾が兄は姉はあかるうも紅葉に映ゆる健やけき顔
來の宮の大人思ひつつ大人が歌の清き石ぶみの前に吾れ立つ》
さらにこの号の最終頁の消息欄に《〇山形縣宮内町須藤氏の水園邸内の竹柏園大人歌碑除幕式は十一月三日に行はれ、須藤氏夫妻同三郎氏が列席された》とある。須藤三郎氏は須藤永次の弟で、公益質屋の管理人として奥さんと娘さんと共に当時私の家の隣に住んでおられた。須藤三郎氏が去られた後の管理人が軍神 粕川少尉」のお父さん粕川長一郎氏。長一郎氏は「縁結ぶ 相生の松奇譚」の原作者。公益質屋の廃止と共に、須藤永次の三島別邸「水園」の管理人になられたと聞く。まだ私が小学生の頃の記憶。

聞香の会.jpg『心の花』の昭和26年12月号の消息欄に《〇須藤水園氏同るいぬしの請により、山形縣宮内町長谷観音堂に、同地出身者の英霊供養の爲にとて園主が執筆された歌碑の建設式が十月二十六日執行された》とあり、その翌月の昭和27年1月号に、「三つの音信と三つの歌碑」と題する佐佐木信綱氏の文中に《昭和二十六年には、自分が、文字の拙なきを忘れて筆を執った歌碑が三つ建った。・・・一つは山形縣宮内町の長谷観音堂に、須藤水園氏夫妻の請によって、かの町の戦死者の英霊をとぶらふ歌を書いたのが十月に建てられた。》とある。この号には須藤るいの四首が載る。石文関連二首。《ふるさとの長谷のみ寺に嬉しもよわが師の歌の石文たちぬ/石文をかこみてつどふ歌人の今日のよき日はとはにわが胸に》

須藤るい像.jpg須藤るい様を偲びて.jpg須藤るいは、昭和36年3月2日に甲状腺癌で亡くなるが、その年の5月号に黒田るいさんによる「須藤るい様を偲びて」の追悼文と佐佐木信綱はじめとする方々の追悼歌が載る。さらに9月号に佐佐木信綱「西山襍(雑)記」に《須藤るい刀自の歌集「うしほの花」は夫君永次翁のやさしい心によって實にうるはしく出来あがった。故人の霊はいかに喜んでをられるであらう。新盆までに間にあふやうにと努力されたオカモトヤの杉野君の努力もありがたいと思った。》とある。今手元に2010年に須藤永一郎氏によって再刊された『うしほの花』がある。熊野大社の證誠殿から借りたもの。上掲写真は『うしほの花』口絵写真から。佐佐木信綱の序には《生きの世を幸福であり、後の世また幸福である刀自のごときは、日本婦人の鑑の一人ともいふべきである。》とある。須藤るい.jpgその生涯について、貞明皇后の侍医であった山川一郎氏は、《夫君は、昔、故浅野総一郎氏の信用を得て、東北六県の一手販売権を得られたさうで、次で製糸業に、更に石膏事業に轉ぜられて、終に、今日の大を築かれました。これは勿論、夫君の炯眼と、御努力にもよるが、更に夫人が真の協力者として、常に尽瘁された結果と納得したのであります。夫人は昔、簿記を学ばれたが、従って店で帳簿を覗いても、直に営業の様子が分かるとか、また、ある時代には、一枚の浴衣すら買へなかったと語られたが、これらの断片的のお話からも、亡き夫人の功績が、熟々推察されるのであります。しかして夫人の立派な御性格も、恐らくその間に、自然錬成されたものでありませう。》と記し、また孫にあたる須藤永一郎、加藤紀子兄妹は、《祖母は明治二十三年三月、山形県東置賜郡宮内町(現南陽市宮内)の染屋山崎家に生をうけ小学校時代の成績は抜群で、当時成績一番の子供に贈られた「山形縣賞」「東置賜郡賞」を独り占めにしていたそうです。御縁あって祖父永次と結婚しますが、祖父は当時地元の事業家で資産家でもあった大友家に奉公した経験を生かし、絹生糸の仲買商、石炭の仲卸商、石膏事業への参加や、生糸産業への参入で成功を収めました。然し昭和初期の大恐慌による破産等を経験し、身をもって祖父を扶け、苦楽を共にした人生だった様です。》と記す。須藤永次の今日あるはるい夫人の内助の功あってこそ、それは夫妻を知る宮内の人々、衆目の一致するところだったと思う。山内氏追悼文には《思へば、夫人は実に親切な、聡明な、謙遜な、東北人らしい温厚な熱誠な方であられました。私達は皆色々なことで、ずいぶんお世話にもなりました。殊に終戦後の物資欠乏時代に、よく郷里の農産物を分与くださったり、また郷里の産物の料理で、お招きに預かったり、猶、時に三島の別邸や、養魚場へも御案内下さって、いつも懇にしていただきましたことは、誠に感銘が深いのであります。》とあり、同郷人として、そしていささかの血縁ある者として、るいの人に尽くそうとするその様子が目に浮かぶが、終戦のその夜「すぐ戻って工場再開。日本の住宅を燃えない住宅にせねばならぬ」と息子の恒雄に告げた夫永次と好一対である。

リーフレット外.jpgリーフレット内.jpgさて、スマホナビで辿り着いた佐佐木信綱記念館は小道に入ったところにあった。生家に隣接して建てられたのだ。実はそれが昔の東海道であることを今知った。《佐佐木信綱記念館は、昭和45年12月に「信綱生家」を拠点に開館し、昭和61年5月に建設された「信綱資料館」と「石薬師文庫」「土蔵」をあわせた施設から成ります。》とリーフにある。玄関でちょうど鉢合わせたのが館長さんだった。昼食を摂りに家に戻られるところだった。「どちらからお出でですか。」「山形からです。」「それではどうぞお入りください。」石田弘一館長は佐佐木信綱顕彰会の会長も兼ねる。退職後地元に戻ってのボランティアとのこと。要を得た説明がありがたかった。なぜ文化勲章第一号なのかがわかった。万葉集がだれにでも読めるようにしたのは佐佐木信綱の業績だったのだ。《大正14年(1925)『校本万葉集』全5巻25冊を刊行し、万葉学史に不朽の大業を完成した。この時54歳であった。》とある。令和元年の特別展「信綱と万葉集」の図録をいただいた。完成した『校本万葉集』は《中国、インドシナ、インド、ベルギー、ドイツ、フランス、オランダ、ハンガリー、イギリス、アメリカの20の大学と図書館へ、英文の解説を加えて寄贈されました。信綱は、「世界に対して日本の文化を語るものの一(ひとつ)であるべきことを、ひそかに期待してゐる」と述べています。》というのがすごい。また《関東大震災の際、『校本万葉集』のための底本や原稿類を焼失した経験から、信綱は、校本編纂のため捜索した古写本や断簡、分類書の内容を永久に保存したいと考え、複製に着手しました。》というのもすごい。「竹柏会」という短歌組織がその事業の中枢を担った。そもそも「令和」も信綱の書き下し文に拠る。《時に初春令月、気淑(よ)く風和らぎ》。「おわりに」に《信綱は晩年に刊行した自伝で、「幼くて、父の教のままに歌を詠み始めたのであるが、後になって、歌の道が、日本の古い伝統に根ざして一千数百年の生命を生きつらぬいた芸術であること、人間の真情を叙(の)べるに最もふさわしい詩型であることを知り、わが生涯をかけて進もうと思い定めたのであった」と述べています。国文学者として、また歌人として、信綱が「一すぢの道」を歩みえたのは、万葉集があったためといえるのです。》信綱の中心業績が「万葉集」であったことに納得です。

信綱顕彰歌会.jpg昨年の豪雨で展示室に雨漏りのため、主な展示物は生家の方にということで、隣接の生家に案内していただいた。軒下に卯の花の苗木が多く用意されていた。展示品の中の古びた箱に「佐々木」とあったので「”佐佐木”ではないんですか」と訊ねたら「中国に行った時、中国には”々”の活字がない事を知って、以来 ”佐佐木” で通すようになった」と教えていただいた。いただいた資料を見ると、館長さんが会長の顕彰会を中心に地元に根を下ろした活発な活動が行われている。「信綱祭」「短歌指導」「信綱かるた」「紙芝居」「語り部の活動」「信綱かるた道」「うのはな街道」「生家清掃」「うの花の挿し木・ポット植え替え」「石薬師文庫」、そして「文化振興にご理解・ご協力をお願いいたします」。「応募されてはどうですか」と「第49回佐佐木信綱 顕彰歌会開催要項」をいただきました。

歌碑が宮内に4基もある佐佐木信綱はなんとなく身近な存在ということでありがたく思いつつも、なぜ文化勲章第一号なのかも知らずに「夏は来ぬ」の作詞者だからすごいぐらいの認識だったのですが、行ってみてほんとうによかった。信綱自身に焦点をあてた「宮内よもやま歴史絵巻」ができそうな気がしてきました。

信綱生家7館長と.jpg信綱生家4.jpg信綱生家3.jpg信綱生家5.jpg信綱生家04-02-087.jpg信綱生家2.jpg

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