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- コロナ危機
《1879年(明治12)のコレラ流行以降、明治政府は衛生政策を急速に整備した。》宮城県においては、コレラ流行時の混乱をなんとか防がねばならないことを意識したものであったことは、《避病院の看護人は「温柔ニシテ親切ナル者」を選ぶことや、条件付きで「呪詛祈禱等」の行為を認めるような規定」》からうかがえる。それが功を奏して、宮城県においては他県に比べ大きな混乱もないまま流行を終えることができたのが明治12年であった。ところが、全国レベルでは明治12年に比して1/3の規模だった明治15年は、宮城県は患者数3977人、死者数2361人に達し、患者数全国2位、死者数3位になった。この事態下、明治以来の予防意識の徹底は、《「入り口三ヶ所に検疫所を置くことに決し、去月三十日より医員・検疫委員等出張して、通行人を検疫消毒》した結果、一人の患者を出さなかったという例もあったが、極端な場合には村に入る橋を落としてまでして他所との交流を遮断する例もあり、予防意識の徹底がかえって混乱を招きかねない状況も生じたのである。
筆者による『陸羽日々新聞』からの明治15年「コレラ騒動」一覧の表が興味深い。
21例のうち13例が、避病院・火葬場の設置や死者等の通行遮断がきっかけとなって起こった騒動。明治12年の時は、禁厭(まじない)祈禱などの前近代的対応(伝統医療や民間信仰)から発する騒動が焦点だったが、15年時の流行に際してはむしろ、予防意識の徹底が騒動の原因になったといえる。《これらは騒動にまで発展したため否定的に捉えられがちであるが、感染源を近づけないという意味では、予防として一概に否定し得ない行動であった・・・その心情には理解が示され、裁判では情状酌量されていた。》ただ行政の側としては、ある地区が「通らせない」と言ってもそれをそのまま認めることはできず、《予防ノ為メ各村二於テ自儘二道路ヲ遮断シ又ハ渡船ヲ止メ、通行ヲ禁スル向有之哉二相見、甚不都合二付、右等ノ所業無之様、屹度示諭厚ク注意可致旨、達有之候條・・・》として、自地域のみを守ろうとする論理は退けざるを得なかったのは止むを得ない。《ここに、コレラ予防、延いては疫病予防に内包する解決困難な問題が見出される。感染源との接触によって伝染する疫病を予防しようとすれば、感染源の忌避と処置をめぐり、多少なりともこうした問題が表れてくるであろう。》今の感染忌避と経済活動の二律背反の問題に通ずる。竹原先生が150年前のコレラ禍からこの問題を読み取ったこの論考、当時の様が今と照らしてリアルによみがえった。