明治10年代のコレラ対応(2)明治19年の山形県 [コロナ危機]
今朝(11/13)の山形新聞一面トップ見出し《一日の感染者最多1651人 首相、対策徹底を支持》で左のグラフ。昨日の感染者数は最高を更新とのこと。「第三波到来」ということでせっかく盛り上がっている「Go To」キャンペーンにも水を差されることになりそう。ちなみに山形県は昨日2人増えて患者数累計94名、死者1名。致命率(致死率)0.07%。
さて昨日に引き続き竹原万雄東北芸工大准教授の論文紹介。「明治十九年における山形県のコレラ流行」(「山形史学研究 第四十六号」2018)。
最初に「明治10年代における全国・山形県のコレラ患者数と死者数」の表。この論考が問題にする明治19年の山形県のコレラ患者数2,217名うち亡くなった人が1,510名、致命率(致死率)実に68%。コレラとコロナ、その怖ろしさにおいて比較も愚かといわざるをえないと思うのだが、マスコミ挙げてのその過剰反応には、選挙実態には目を瞑って「バイデン勝利」を既成事実に仕立て上げようとする状(さま)となぜか被(かぶ)る。それはまた、mespesadoさんの最新発言(111)、《今回の米大統領選の黒幕がDSであることは明白ですが、実はこのDSってグローバリズムと緊縮財政のコンボによってはじめて世界制覇が可能になるのはよく知られているとおり。この後者、つまり緊縮財政の役割を一手にになっているDSの総本山って、実は日本なんじゃないのか?一見、財務省がその中心に見えるけれど、実は国民の誤った経済倫理観こそが中心で、財務省はそんな世論に乗っかってるだけ。つまり、「日本の世論」こそが、DSの2本柱の一方を担う「総本山」なんじゃないの?》に通底する。
ともあれ、その病そのものについては比較にならないコレラとコロナだが、その対処については今ともおおいに通ずる134年前の様子を竹原論文から読み取ってみることにします。《本論では、自治体史や医師会史で提示された史料も活用しながら明治19(1886)年における山形県のコレラ流行とその対策を整理する。その際、先行研究で指摘された患者隠蔽・衛生組合に注目し、明治19年における山形県の流行と対策を研究史の動向のなかに位置付けたい。》山形県に焦点を絞っての解明なので身近に思えます。(山形県立図書館でコピーもらえます。)
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明治19年、最初の患者発生は最上郡で6月17日。その後庄内から村山、置賜へと広がり、8月20日の週は新患者287名、うち亡くなった人156名。10月中旬から衰退に向かい12月10日に撲滅。177日間に患者数2213名、死者数1505名、致命率68%。この状況に県はどう対応したかが「予防消毒法の成績概略」からわかる。《①隔離病院である避病院や部落遮断による隔離、②船舶検査、③群集場所の閉鎖と掃除、④隠蔽の防止。功を奏したものとして、⑤隔離・遮断の二法と不消化物の売買禁止、⑥石炭酸による消毒》という基本的な予防を展開した。県が発布した主要な法令と「虎列刺病(コレラ)予防実施心得」の表↓。
【表3】に「隠蔽患者を発見した時は届けること」「貧民治療に配慮し、患者の隠蔽がないようにすること」とあるが、「患者の隠蔽」が大きな問題だった。吐瀉物、汚物にまみれた狭い病室に軽重の区別なく押し込まれ、看護人からは長いヘラでの食事の供与との記事が出て、この記事については「事実相違の廉(かど)あるを以て速やかに取り消すべし」の達しで取り消されたが、いかにこのことに神経質だったか。あるいは、避病院に送られたくない患者を忖度してコレラと診断しない医者が患者の人気を博す例も珍しくはない。県は必死で隠蔽摘発を図らねばならなかった。『出羽新聞』10月13日の「西置賜郡近況」、《郡役所・戸長役場・警察署よりは日夜該地方に詰切り大ひに尽力せらるるも、無智の頑民は該病に罹る者を恥とする気味合にて、隠蔽し或は吐瀉物を粗漏に取扱ふより、巡査は毎戸捜索して取締方を厳重にせらる故に、該地方は勿論、其他の村落迄大に狼狽し、念仏祈祷と多人数打ち集り、鐘太鼓にて騒ぎ立て、其筋の説諭をも用ゐざりし》。もはや神仏に頼るほかはない、パニックともいうべきか、いやその前の最後の手段だった。そこで救われることもあったかもしれない。県はといえば、患者発生以前より「隠蔽」を警戒し、《届出の徹底・「密告」の促進・貧困患者への救済・戸口調査などさまざまな対策を促進した。しかし、ひとたび患者が発生すると患者や近親者、医師の利害に関わる患者隠蔽を抑止することは困難であった。》痛いほどよくわかる。
「衛生組合」が政府によって制度化されるのは明治20年からだが、それ以前から各地で「自主的」に設置されていた。【表5】は「コレラ予防に係る『契約書』」を県内2地区について見たものだが、同様の内容例が各地にあることから、山形県では「衛生組合」を通して警戒・協力することで隠蔽を抑止しようとしていた意図が読み取れる。
【表6】は、「海陸交通検査所」があった場所。隠蔽問題とともに「交通遮断」も大きな問題だった。行政が主体となっての交通遮断はたしかに有効な予防法だった。地域で自主的に交通を制限する事例もあった。良い例として西田川郡木ノ俣村組合の例、《①「重大の用向」のほかはなるべく他の町村に出ないことを規約として設け》、それに伴い《②交通制限のため生活に差し支えある者には有志から米穀を貸与させ、さらに③その返済方法として堤防工事の仕事を用意した》という。ただ、《患者を避病院に送ったり、死者を火葬場に送る際、自分の地域を通られたくないため、武装してまで交通を遮断したという事例》もあったという。《こうした自主的な交通遮断と行政が実施する交通遮断はどのような関係性にあるのか。「遮断の救援」という視点も含めて今後の課題として提起しておきたい。》とこの章を〆める。
翌年政府は「衛生組合」の制度整備を行った。しかし、《明治20年代後半の赤痢流行時には衛生組合が機能せず、戸口調査のような強権的な対策をとらざるを得なくなっていた》という。《明治20年代に試行錯誤される「自治的予防体制」の新たな具体事例として改めて検討してみたい。》ということでこの論考は終わる。
県立図書館にあった3論考のうち2論考を紹介した。今回2論考を読んで、専門家の間では読まれているのだろうが一般にはどうなのかと思った。埋もれたままだとしたら、ほんとうにもったいない。コロナ禍の今読むのにぴったりの内容だ。東北芸工大の教員紹介にはこのほか、①2018「コレラ流行と「自衛」する村落社会─1882(明治15)年の宮城県牡鹿郡を中心として─」『【東北アジアの社会と環境】近世日本の貧困と医療』古今書院 ②2015「安政期コレラ流行をめぐる病観と医療観 -仙台藩士・桜田良佐の記録を事例として-」『江戸時代の政治と地域社会 第二巻 地域社会と文化』清文堂 ③2013「明治二〇年代前半における市町村自治と衛生政策」『日本歴史』第784号 があげられている。それぞれ興味が湧く。(②は米沢市立図書館にあるのが今わかった。)一冊にまとめて売り出す慧眼の出版社はないのだろうか。
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