「とにかく生ぎででだげけろな」と言っていたのも、いつかこの時が来ることの覚悟はあってのことだった。「フェードアウト」という言葉が似合う大往生だった。昭和11年7月27日生、享年89歳。


大動脈解離で生死の境をくぐり抜けて来た。最初は平成27(2015)年だった。「齊藤喜一氏重篤の中、ケネディ大使への手紙を発信しました」https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2015-05-25 令和3(2021)年にも別の箇所で再発して救急車で運ばれた。間に鼠蹊ヘルニアの手術もあった。その時も救急車だった。そのたびに甦ることができた。最初の発病で車の運転を止められてからは電動自転車でどこまでも行った。周りはハラハラさせられていたが、無事で通した。病気前より丈夫になったようでさえあった。神社の石段を自力で昇り降りできるようにもなっていた。神(お獅子さま)のご加護を思わされてきた。逝くべき時まで生き切った。


今は肉体のくびきから放たれて、精神の自由を満喫し出しているような気がしてならない。頭取の自由奔放な思考にとてもついてゆけなかった者として思う。ただフーフー言いながらのなんとかついていって形のなったのが「白鷹山に『伝国の辞』碑をつくる会」だった。頭取の発想から、碑の建立が実現しただけではない。キャロライン・ケネディ駐日大使の米沢訪問につながった。そこからさらに南陽とバルバドスの交流が始まった。→鷹山公精神の世界発信(「Acorn」への寄稿)(1) ケネディ大統領の心に鷹山公の名が深く刻まれたわけ」https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2015-03-02/「バルバドスシンポジウム」https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2019-02-26


とりあえず、手元の写真から何枚か。昨年撮ったものです。→祭りはリクツでない」https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2023-07-26