◎NHK朝ドラ「らんまん」の源流は井上ひさし
この脚本を書いた長田育恵氏は井上ひさしの最晩年の弟子。実は牧野富太郎については井上ひさしが昭和35年に「花を愛して90年ー牧野富太郎博士の一生ー」というNHKラジオドラマの脚本(45分)を書いていた。長田さんがインタビューでこう語っていた。《「万太郎が植物に優劣をつけないように、全ての登場人物に対して公平な眼差しで見て描くことをたいせつにしていました。ちゃんと一人ひとりが自分の意志で生きている。そこを大切に造型しました。・・・井上先生が芝居の中で大事にしていたのが詩を描き込むということです。人間の営みの美しかったり、力強かったり、そういう人間の美しい瞬間を書きとめる。それを凝縮して物語の中に入れ込む。セリフにも一生に一度しか言わない言葉を入れ込む。言葉にほんとうの意味が宿る瞬間をちゃんと書きなさいというのが先生の教えでした」というふうなことをお書きになって、全くその通りのドラマだったなあと、私は思います。》
- 井上ひさし
◎井上修吉(ひさしの父)の曽祖父、荒砥生まれの俳人”不材”
天保6年(1835)66歳没。《当時の米沢藩、この置賜界隈というのは非常に文化的にレベルが高くて、中でもそういう俳諧、俳句が盛んでした。それで川西は宿場町で、商いで相当賑わっていた。旅まわりでそういう俳諧師たちが一宿一飯を乞うということがよくあったわけですけれども、俳句だけでなく瞽女さんがこのあたりで関係しているわけですけれども、そういう文化的な高さ、生活の豊かさがあったわけですけれども、この不材さんがこの米沢藩内を行脚して、その過程でこの上小松の金子家、山十というそこの養子となります。・・・その曽孫が井上修吉、すなわち井上ひさしのお父さん。井上修吉という人も小説家を志してサンデー毎日の懸賞小説に応募して入選することもあって、ところが井上ひさしが5歳の時に亡くなる。つまりそういう文人の血筋というのが実は江戸期から綿々とつながってきた、そういう家だったんだなあということもわかってきました。井上ひさしはこの不材さんという人を登場人物にして小説にしたいという発言も残っている。その不材さんのお父さんの俳句も残っている。その俳句への関心が、後の小林一茶とか松尾芭蕉であるとか、そういう芝居を書くきっかけになったんじゃあないかなあ、と思っています。文化的な豊かさの伝統の中で、井上ひさしが育ってきた。で、この置賜地方というのが、川西だけではなくて、やはり井上ひさしのいろんな作品の舞台となり、あるいはヒントとなってきました。》