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「もしかしたら、神のような人なのか」(寂聴) [小田仁二郎]

井筒俊彦が小田仁二郎を何故評価したのかについて、ちょっとわかったような気がしたので書いておきます。

「瀬戸内寂聴 58年前の手記【3】「目をそらして来た彼の妻の影像に向き合う」」にこうあった。《無意識にそこから目をそらして来た彼の妻の影像に、私は、むりやり自分の目を凝らすようにしつけはじめた。8年間、唯の一度も不平がましいことをいわず、唯の一度も私を訪ねても来ず、うらみごとの一つ云っても来ないその人……無神経なのか、生きているのか、もしかしたら、神のような人なのか……。》ここで寂聴さんは、仁二郎の奥さんを指して「神のような人なのか」と言ったのだが、私には仁二郎についても言えるように読み取れた。奥さんが「神」であるように仁二郎も「神」であるようなレベルで理解しあった夫婦関係というのもあったのだと。

その時の「神」を「一人称存在」と言い換えて理解する。実は安藤礼二が、文学は神がかったひとが一人称を語るところから始まった》とする折口信夫と井筒俊彦のひびき合いに着目している文章を読んで仁二郎を思っていたところだった。(→井筒俊彦を読みなおすー新しい東洋哲学のために 安藤礼二+中島隆博https://genron-cafe.jp/event/20191126/)福田恆存は、小田仁二郎の作品がポルノ小説ととられかねないのを危惧して「あくまで知性の文学」と断じたが、福田が「日本で初めての完全な一人称小説」と認めた『触手』に、井筒俊彦は知性以前の、あるいは知性を超えた「神懸かり性」を読み取ったのではないか。つまり、井筒俊彦は小田文学に「文学の初源性」を認めていたのではなかったのか。ーーーここからいろいろ世界が広がるのを感じるが、とりあえず今はここまで。

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