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小田仁二郎の現在的意義を探る(市民大学講座)(上) [小田仁二郎]

昨日市民大学講座を終えてきました。どこまで伝わったかはわからないので、語りたかったこと、語り終えてわかったこと、気づいたことなど、ひっくるめて整理しておきます。
小田仁二郎にとって「触手」が中心に抱えていた課題のひとつの集大成、小田仁二郎の世界の広がりの中でひときわそびえ立つ頂点だったのだと思う。ぎりぎりのところまで行き着いた果ての「触手」の世界。そしてそこに至るまでのプロセスとしての「にせあぽりや」。
「にせあぽりや」のとりわけ難解な最終章「宗次郎のノート」、そこで登場する、その匂いまでも伝わってくるような「一枚の貝殻」、その貝殻に小田にとっての「自我」観が凝縮されていることに気づく。《私は、泥のなかから、一枚の貝殻を掘り出した。あわびの貝のようでもあり、帆立貝の殻でもあるようだ。貝の内面には、泥が、かたくこびりつき、なんともしれぬかすかなにおいが、鼻をついた。私には、そのにおいが、泥から発するものか、貝殻からたちのぼるものなのか、わからないのである。泥の厚みは、ほとんど一寸にも達し、鉄の如きかたさをなしていた。私は、鋭利な刃物で、泥を削りおとしていった。泥がうすくなるにつれ、においが、しだいに、鋭く強度をまし、鼻の感覚を、しびれさすようであった。やがて、泥は、あとかたもなく、とり去られたけれど、においのみが鼻をさしつらぬき、貝殻の内面は、いっこうに光りかがやかなかった。私は、試みに、刃もので、貝の一部を鋭角にきりとった。いちぢに吐気をもよおす臭気が、両眼をうってき、それとほとんどいっしょに、貝殻は、音たてて、粉みじんにこわれたのである。みれば、貝殻は、その内部がどろどろに腐蝕し、わずかに、こびりついた泥で、形をたもっているにすぎなかった。・・・それは泥にかためられ、ようやく形だけ保っている、一枚の貝殻の姿である。重さもなく、軽さもない機関車とは、不可思議な思考の重さであった。思想は、重さであり、重さは、行為である。行為のないところに重さはなく、重さのないところに、流動の思想はない。流動のない思想は、内部の腐蝕せる貝殻でしかないのである。流動のない思想は、この腐蝕せる貝殻を、生あるものと誤信し、これに重さの行為を要求する。貝殻は空中高くなげあげられ、または水中深く沈められるが、そこに発現するのは、腐敗の臭気にすぎない。あるいは、貝殻を、祭壇のおくふかく祭りこめ、これに不可能の祈りをささげる。堂内は、息がつまり、いつか貝殻は、祭壇の奥で、どろどろにとけているのだけれど、祈りをささげるものは、誰一人、これを知らないのである。》
自我が空無と化した世界が「触手」の世界とすると、それに至るまでの世界が「にせあぽりや」の世界、そこにあった吐気をもよおす臭気》とともにあった貝殻としての自我、しかしその自我云々以前の「生きられた世界」がたしかに在ったのだ。小田文学にとってそれは幼少期の宮内の記憶だった(↓「にせあぽりや」に描かれた宮内)。たとえば春先の雪割りの様子、これほど生き生きと描かれた宮内を知らない。《冬も、いよいよ、おわりちかくなります。いままで、きよらかな、もちのような雪のはだも、だんだん、あばたずらのように、きたなくなるのです。やねからおろした雪が、六七尺も、おかのようにたかく、かたくこおっているおもてどおりの道などには、ごごの日にとけて、馬ふんをうかべていた水たまりが、できるようになりました。・・・》今から60年以上前の情景が昨日のように眼前する。あるいは、初雪の情景、《・・・にわの大きな松のえだには、かさをさしたように雪がたまり、そのさきのほうは、いまにもゆきがすべりおちそうに、たれているのです。いたべいぎわの、こうやまきなどは、おちのこった雪がまだらにつき、しらがまじりの、ざんばらがみです。にわの西がわの便所のやねも、もんのまえのうちの、わらやねも、まっしろにおちつき、わらやねのけむだしからは、うす青いけむりが、しずかにたちのぼります。・・・》小田家の佇まいから道路を挟んだ片平豆腐屋の茅葺屋根が懐かしくまざまざと思い浮かぶ。小田の自我以前の記憶にしっかり刻み込まれていた宮内の情景、それこそが小田にとっては「ほんとうに実在するもの」だった。
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終章で、それらのすべてが御破算にされる。《私は、茫然と四つ辻にたち、身にせまりくる寂滅にふるえおののき、眼のすみで、あたりをみまわした。四つ辻の、家という家は、屋根がおち、柱はおれ、くもり空に、その骨をさらしているのだ。くずれのこる倉の白壁は、風雨にくろずみ、四つ辻におこる、ひそかな竜巻にも、もうもうたる煙りをまきあげた。けれど、その砂塵をとおし、くずれおちる白壁にも、おちかたむく屋根にも、瀕死の人の手のような家の骨にも、私の記憶は、戦慄をおぼえてくるのである。戦慄は、私のうちからそとへ、四つ辻いっぱいにひろがり、煙りをまく白壁に、灰黒色のそらにつきだす家の骨に、つきささっていった。これこそ、私がめざし、飛翔してきた町の、廃墟であった。》そうしてあらためて始まるのが「触手」の世界だったのだ。
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冬を迎える菊片付け  [宮内]

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今年は霜が降りなかったので、片付けるにはまだもったいないような菊の片付けを今朝終えました。霧の深い朝でしたが、街より高いところの畑に行くと、朝日に輝く西の山並みがきれいでした。明日あたりから寒くなる予報で、いよいよ冬を迎えます。雪囲いも始まっています。

菊の粡町通り2022.11.115.jpg菊片付け2022.11.13 2.jpg一昨日撮っていた写真です。今年はとりわけ見事だったように思います。平源助さんあっての粡町通りの菊の花です。86歳で、ますます元気です。→


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