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『神やぶれたまはず』再々読(1) [本]

神やぶれたまはず.jpg『神やぶれたまはず』、自分のも含めてアマゾンレビューのいくつかを読んで、あらためて読まねばと思って開いた。

序の書き出し、《一国の歴史のうちには、ちやうど一人の人間のうちにおいてもさうであるやうに、或る特別の瞬間といふものが存在する。その瞬間の意味を知ることが、その国の歴史全体を理解することであり、その瞬間を忘れ、失ふことが、その国の歴史全体を喪失することである、といった特別の瞬間ーーさうした瞬間を、われわれの歴史は確かに持つている。/わたしがいまここでしようとしてゐるのは、その瞬間をもう一度ありありとわれわれの心に甦らせ、その瞬間の意味を問ひ、そしてその答へを得ることである。》(1p)

折口信夫を語った第1章、《われわれにとっての大東亜戦争は、決して単なる、他の手段をもってする政治などではなく、或る絶対的な戦争だったということ。そして、もし「日本の神学」といふものが構築されうるとすれば、その基はこの「絶対的な戦争」の経歴以外のところには見出されえない》(29p)当時の日本人の意識において、たしかに石原莞爾の言う「最終戦争」だったのだ。そうしてこそ国挙げて戦い得た戦争であった。間違っても、どこぞの「属国」が取り組んだ戦争ではない。《しかしそれにしても、日本人の大東亜戦争の経験の、いったいどこに「絶対的」なものがひそんでゐるといふのだろうか?》(30p)と結ぶ。

橋川文三の第2章、《氏自身の「戦争体験」ーーその底に、「イエスの死の意味に当たるもの」をかいま見た体験ーーの記憶があったのに違ひない。》(36p)

第3章は桶谷秀昭。《「精神過程の上で、昭和21年末までに、大きな 変質が日本人に起った。・・・昭和精神史における”戦後”とは、大枠において、過去の日本を否定し、忘却しようとする意識的な過程である。」》(48p)河上徹太郎の語る言葉に注目する。《「国民の心を、名も形もなく、たゞ在り場所をはつきり抑へなければならない。幸ひ我々はその瞬間を持った。それは、八月十五日の御放送の直後の、あのシーンとした国民の心の一瞬である。理屈をいひ出したのは十六日以後である。あの一瞬の静寂に間違はなかった。又、あの一瞬の如き瞬間を我々民族が曽て持つたか、否、全人類であれに類する時が幾度あったか、私は尋ねたい。御望みなら私はあれを国民の天皇への帰属の例証として挙げようとすら決していはぬ。たゞ国民の心といふものが紛れもなくあの一点に凝集されたといふ厳然たる事実を、私は意味深く思ひ起こしたいのだ。今日既に我々はあの時の気持と何と隔りができたことだらう!」》桶谷、《そのとき、人びとは何を聴いたのか。あのしいんとした静けさの中で何がきこえたのであらうか・・・『天籟』を聴いたのである・・・彼(『斉物篇』の隠者)は天を仰いで静かに息を吐いた。その時の彼の様子は、『形は槁木(枯れ木)の如く、心は死灰の如く』『吾、我を喪ふ』てゐるやうであつたといふ。(61p)(つづく)

以下は、アマゾンレビューのいくつか。

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