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狂気の沙汰 [コロナ危機]

10万人あたり陽性者数 修正グラフ 市報.jpg

5/1発行の市報「なんよう」に「ワクチン接種済者の新規陽性者数は、未接種者に比べて少なくなっています」として掲載された、年齢層別10万人あたりの新規陽性者数のについて、「市報掲載「ワクチン接種済者の新規陽性者数表」の問題点」https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2022-05-08-1 の記事を書きました。ところが、市報掲載の出典データに、故意とも考えられる間違いがあることが判明、その後は修正されたデータが発表されています。( 「厚労省が公式データ修正→「ワクチン有効」は嘘でした…の衝撃。」https://note.com/hiroyukimorita/n/nb8167213232a

それによると、ワクチン未接種者の10万人あたり陽性者数は、修正前に比べて大幅に減少しています。なぜそうなったのか。修正後データには小さく注釈がついています。

画像

接種不明者.jpgつまり、2〜3割あった「接種歴不明」の陽性者数がそっくり「未接種」の陽性者数に加えられていたのです。このことについては、次のような見方がありました。http://www.asyura2.com/22/iryo9/msg/224.htmlここで気をつけなければいけないのは、修正後、「接種歴不明」に分類されていた件数がデータに含まれなくなったということです。接種したかどうか覚えていない人はいないので、「接種歴不明」は1回以上接種したけれど、接種日を覚えていないという人たちです。つまり、2回、3回接種者は、ここの示してある棒グラフよりもはるかに多いということです。未接種者のほうが陽性者数が少ないのは明らかです。》そして、こう付け加えています。《それがバレると困るので、厚労省は「接種歴不明」という分類を故意に設けて、ゴマカシをしたということです。》

国がワクチンの効果を示すデータを修正! 一体なぜ?【大石が深掘り解説】https://www.youtube.com/watch?v=TI0AmG-N7f4

コロナ交付金.jpgさらに加えて、出典不明ですが、左の記事があって驚きました。

コロナ交付金 3回目接種率応じ配分/政府は新型コロナコロナウイルス対策の自治体向け地方創生臨時交付金の配分に、ワクチンの3回目接種者の割合(接種率)を反映させる仕組みを導入した。接種率が高い自治体は、コロナなどの影響を受けた事業者らが経済活動を再開しやすい環境が整っていると判断し、手厚く配分。ウクライナからの避難民の受け入れ人数も考慮に入れる。》

ワクチン接種のためにはもうなりふり構っていられない、もう狂気の沙汰です。ワクチンのロット管理のために、6万円以上するタブレットが無償で全国の医院に配られています。》との情報もありました。https://note.com/nakamuraclinic/n/n5c74ee6cb593その一方で、大量廃棄も問題になっています。→「余るモデルナ、止まらぬ廃棄 融通できず悩む自治体」 
https://www.sankei.com/article/20220514-MVVCVLRYYBLIHKRXTOCW7V4HGM/)さらに加えて、
使用されないまま有効期限が切れた新型コロナワクチンの廃棄をめぐり、後藤厚生労働大臣は、自治体の業務負担などを考慮し、現時点では、廃棄されたワクチンの量を調査する考えはないことを明らかにしました。》「後藤厚労相“ワクチン廃棄量 調査せず 自治体の業務負担考慮”」(NHK 2022/5/17)http://www.asyura2.com/22/iryo9/msg/226.html

コロナ予算.jpg


新型コロナも、ロシアvsウクライナも、みんなそろそろ正気に還らねばなりません。

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新・mespesadoさん講義(147)「参政党」評価 [参政党]

今朝最初に見た動画がこれでした。→「【参政党】神谷宗幣 魂の演説!日本に3つの超危険団体が誕生しました。しかしマスコミは全く報道しませんでした【桜木町 質疑応答】」https://www.youtube.com/watch?v=udpoJL89BII
吉野さんの騎馬民族の話(「出るべくして出た政党か」https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2022-05-08もそうだったが、若い人が何の屈託もなく語ってくれることで、すっと素直に気持ちに染みてくる。「新しい歴史教科書をつくる会」に本気だった20年前を思って感慨深い思えばあの頃は、「屈託だらけ」だったから。(「新しい歴史教科書をつくる会」https://oshosina.blog.ss-blog.jp/archive/c2302825473-1
『神やぶれたまはず』にかかりきりで下書きのままだった、mespesadoさんの「参政党をどう見るか」についての発言をアップします。
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『神やぶれたまはず』再々読(7) [本]

平成26(2014)年、『神やぶれたまはず』を読み終えてこう書いていた。https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2014-01-10#more

 

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昭和208月のある一瞬――ほんの一瞬――日本国民全員の命と天皇陛下の命とは、あひ並んでホロコースト(供犠)のたきぎの上に横たはっていたのである。》(p.282

 

国民は、その一瞬が過ぎるやたきぎの上からたちまち降り立ち明日から生きてゆくための行動を開始した。薪の上に載った一瞬などその時だけの一瞬に過ぎない。そんな記憶は時間と共にどんどん遠ざかってゆくだけだ。そうしてあっという間に68年が過ぎてしまった。

 

しかし、国民にとっては「ほんの一瞬」であった 「この一瞬」は、昭和天皇にとってはその後の生を通して背負い続けなければならなかった「永遠の一瞬」だった。

 

いまあらためてあの一瞬からいままでの時の流れをふりかえるとき、あの一瞬が夢だったのか、はたまたあの一瞬を忘れて過ぎ去った68年の時の流れが夢だったのか。長谷川氏の「神やぶれたまはず」を読んだいま、私には過ぎ去った68年の方が夢だったのかと思えてしまう。

 

昭和天皇はその間、われわれにとってたちまち過ぎたあの一瞬を夢ではない現実として、たきぎの上から降り立つことのないまま昭和を生きて、平成の御代へとバトンを引き継がれていったのではなかったか。薪の上に在りつづけた昭和天皇のお姿こそが夢ではない現実ではなかったのか。そのことを抉り出してみせてくれたのが、他ならぬ「神やぶれたまはず」であった。民よ、再び薪の上に戻れ。そこで「神人対晤」のかけがえのなさを知れ。確たる現実はそこからしか始まりようがない。さもなくば日本人の精神はとめどないメルトダウンに抗すべくもなし。あの一瞬に目を瞑っての日本再生は、かつて辿った道を遡る道に過ぎない。


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『神やぶれたまはず』を三度目読み終えての今の思いは、大すじ同じだ。ただ、「かつて辿った道を遡る道に過ぎない。」という言葉については、その意味するところは輻輳している。

あの敗北は、「最終戦争」を戦い得ての敗北だった。そうであってはじめての「その一瞬」であった。仮に今のまま西側陣営の一員として戦争に突っ込んでいくとして、その戦争は「使い走り戦争」以外の何ものでもない。「通常の歴史が人間の意識に実現された結果に重点を置くとすれば、実現されなかつた内面を、実現された結果とおなじ比重において描くといふ方法」が「精神史」の方法》と桶谷秀昭氏が言ったというが、語るに値する「内面」の持ち合わせなど皆無であり、それゆえ「精神史」など思うもおこがましい。跋扈するのは、利害打算のあさましさだけだ。

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『神やぶれたまはず』再々読(6)「イエスの死にあたる意味」 [本]

戦争末期の「”国体”護持の思想」について考える。そもそも”国体”観念は、西洋諸国侵略の危機に瀕した幕末に本格的に登場した。藤田東湖は言う、「蓋し蒼生安寧、是を以て宝祚窮りなく、宝祚窮りなし是を以て国体尊厳なり。国体尊厳なり是を以て蛮夷・戎狄率服す。四者循環して一の如く各々相須(ま)つて美を済(な)す。」すなわち、《天皇が民を「おほみたから」として、その安寧をなによりも大切になさることが皇統の無窮の所以であり、だからこそ国体は尊厳である。そしてさういふ立派な国柄であればこそ、周辺諸国も自づからわが国につき従ふ。これらはすべて一つながりの循環をなしてわが国の美を実現してゐるのだ、といふことである。》「国体」とは、上からの愛民、下からの忠義といふ上下相互に交流するダイナミックなものであるがゆえに、「君民対立」が大前提の他国の政治思想とは根本において異なる。《かくして、大東亜戦争の末期、わが国の天皇は国民を救うふために命を投げ出す覚悟をかため、国民は戦ひ抜く覚悟を固めていた。》(p.242)すなはち、天皇は一刻も早い降伏を望まれる一方、国民にとっては、降伏はありえない選択であったのである。入江隆則『敗者の戦後』に曰く、《1945年の日本の戦略降伏のいちじるしい特徴は、天皇を護ることを唯一絶対の条件としたことだった。同時に天皇は国民を救ふために『自分はどうなってもいい』という決心をされていて、こんな降伏の仕方をした民族は世界の近代史のなかに存在しないばかりか、古代からの歴史のなかでもきわめて珍しい例ではないかと思う。」》いまや国土全体大量虐殺の場と化した現状から民を救うために命を投げ出すことを厭わぬ天皇と、天皇の命と引き換えに自分たちの命が助かるなどありえないと考える国民、「降伏することもしないこともできない」というジレンマである。著者(長谷川)は「美しいジレンマ」であると同時に「絶望的な怖ろしいジレンマ」であるという。戦後ズタズタにされてしまったが、日本とは本来そういう国であったのだ。国民の意識において、そこに立脚しているがゆえの、文字通り「最終戦争」であったのだ。

このジレンマから抜け出すにはどうするか。本来ダイナミックな「国体」を、「立憲民主制」という意味に矮小化して、そのことの維持を以って降伏の条件とするというのが、日本政府によってひねり出された「国体護持の思想」であった。《これは天皇陛下の切実なお気持ちからも、国民の決意からも遠くはなれた話になっている。・・・しかし、「国体」のジレンマによって、文字通り身動きのできない状態にある政府にとって、これは唯一の脱出口であつたに違ひない。》(248p)これは「ポツダム宣言」の示唆するところを日本政府なりに受けとめた結果でもあった。《彼らは、日本人がただ脅しつけられただけでひるむやうな民族ではないことをよく知つていた。と同時に、日本にはその国家の中核をなす価値といふものがあり、それが日本人全体のコンセンサスによつて支へられてゐるといふことも心得てゐた。したがつて、その価値が損なはれないといふことを明らかにした上で降伏を勧告するならば、どんなむごたらしい攻撃を加へるよりも速やかに、日本人の降伏を引き出すことができるーー「知日派」グループには、さういふ確信があつたことであらう。》(253p)それはしっかり「ポツダム宣言」の中に盛り込まれる。「前記諸目的ガ達成セラレ且日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府ガ樹立セラルルニ於テハ聯合国ノ占領軍ハ直ニ日本国ヨリ撤収セラルベシ」。降伏後の日本の政治形態については日本国民の自由意志にまかせる、ということである。

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『神やぶれたまはず』再々読(5)「神人対晤の至高の瞬間」 [本]

『旧約聖書』創世記第22章、アブラハムは一人息子イサクを神の命のままに生贄に差し出す。殺そうとしたその時、神は、「汝の子、汝のひとり子をさへ、わたしのために惜しまないので、汝が神を恐れる者であることを私は知った。」の言葉とともに中止の命令が下る。著者(長谷川)は言う、《アブラハムはまさに「神人対晤の至高の瞬間」を目指して、三日間の旅路を一歩一歩たどってゐたのだ・・・ただ神に呼びかけられて、神と一対一で対面すべく、三日間の旅路をたどつたのである。・・・そのおともする者は誰しも「思想のわななき」を覚えずにはゐられないのである。/そこには間違ひなく、宗教の本質にひそむ「おののかせる秘儀」がかいま見えてゐる。》(219-220p)アブラハムは、ひたすらな「神への愛」を貫徹したはずだった。しかし土壇場で神の拒絶にあった。アブラハムは身代わりの羊を献げ、神からの祝福の言葉を受ける。

著者(長谷川)はその時のイサクを思う。《彼は、或る朝はやく、どこへ何しに行くのかもわからぬまゝに、父に連れられて旅に出る。・・・彼はなにかにつけて、いつのまにか受動的な役割へと押しやられ、それに甘んじる人物として描かれてゐる。・・・将来すべてのユダヤ民族の父となるべきこのイサクは、ただ、まるでデクノボーのやうにたきぎの上に載せられ、次にそこから降ろされるだけなのである。これはなんとも異様なことと言ふべきではなかろうか?・・・ここでは、もっとはるかに深刻な神学的問題を引き起こしてしまふ・・・つまり、自らの死を神に与へやうとしてゐる者にむかつては、神は中止命令を下してはならないのである。それは奉献そのものの拒絶を意味し、神と人との関係をそこで切断してしまふことにほかならない。》(225-231p)イサクの思いは、二・二六事件で散った神霊英霊たちの「たいへんな怒り」、また8月15日の放送を聞いての吉本隆明の「名状しがたい悲しみ」の慟哭そのものに通ずる。

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粡町自主防災会避難訓練、等 [日記、雑感]

粡町通信2022.5.2.jpg昨日(5月15日)、3年ぶりに粡町自主防災会の避難訓練が行われました。南陽市水防訓練に合わせての実施です。同じ町内でもこうして一堂に会する機会がすっかりなくなってしまっています。短い時間でしたが、お互い顔を合わせながら、これが本来なんだなあと確認しあったひと時でした。40数戸の粡町町内に、ここ数年の間に新たに6家族が加わりました。うち5軒に子どももいます。以前に比べ、参加メンバーもすっかり若返っています。
今年です↓
避難訓練2022.5.15.jpg
水防訓練は花公園の近く、吉野川新生橋上流河川敷で行われました。
水防訓練2022.5.15.jpg

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『神やぶれたまはず』再々読(4)「神風」 [本]

三島由紀夫。この第8章、著者の繊細かつ緻密な読み解きについてゆくのは難しいが、大筋を追ってみる。《「……たしかに、二・二六事件の挫折によって、何か偉大な神が死んだのだった。当時11歳の少年であった私には、それはおぼろげに感じられただけだったが、20歳の多感な年齢に敗戦に際会したとき、私はその折の神の死の怖ろしい残酷な実感が、11歳の少年時代に直感したものと、どこかで密接につながってゐるらしいのを感じた。」》(163p)

そこで二・二六事件『英霊の声』に則して、《「……すめろぎが神であらせられれば、あのやうに神々がねんごろに謀り玉ふた神人対晤の至高の瞬間を、成就せずにおすましになれる筈もなかつた」・・・この「神人対晤」といふ言葉が指し示してゐるのは、・・神が「死」を命じ、人がそれに従ひ。神がそれを受けとる、といふ形ーーそのものである。そしてこの形は、次章に見るとほり、まさしく神学の根底をなす究極の形とも言ふべきものなのである。・・・青年将校の神霊たちが、あれほどまでに激烈な慨きを見せるといふのも、単に自分たちの蹶起が失敗し、陛下にそれを叛乱と決めつけられたから、といつた現世的な理由によるのではない。それはまさに神学的な慨きであり、神人対晤の至高の瞬間」を奪はれたといふことこそが、彼らの訴へる「裏切り」の内容だつたのである。(181p)

神風特別攻撃隊に対しては、「そのやうにまでせねばならなかつたか。しかしよくやつた」との陛下のお言葉が伝わるも。ならば、「神が「死」を命じ、人がそれに従ひ。神がそれを受けとる」ということからして、特攻隊員の死は「神人対晤の至高の瞬間」の実現であったのか。《ところが、彼らもまた「裏切られた霊」なのであるといふ。そして、そこに持ち出されてくるのが「人間宣言」なのである。/英霊は言ふ。「しかしわれら自身が神秘であり、われら自身が生ける神であるならば、陛下こそ神であらねばならぬ。神の階梯のいと高いところに、神としての陛下が輝いてゐて下さらなくてはならぬ。」さうでなければ、彼らの死は「愚かな犠牲にすぎなく」なり、彼らは「神の死ではなくて、奴隷の死を死ぬことに」なる。しかzるに、昭和21年元旦の詔書、いはゆる「人間宣言」は、天皇ご自身がその「神の階梯のいと高いところ」から降りてしまはれた、といふ宣言であった。つまりそのやうにして彼らは、死後に裏切られた霊となつた・・・神人対晤の至高の瞬間」は、それによつて、かこにさかのぼつて奪はれたのみでない。未来にわたつても、永遠に不可能とされてしまつた(184p)

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『神やぶれたまはず』再々読(3)「最終戦争」と「使い走り戦争」 [本]

大東亜戦争は、敵がいつ目前に現れて爆撃されるかわからない状況下、「王道楽土」「五族協和」そして「八紘一宇」の思いを以って日々を生きていた、まさに命がけの「最終戦争」だった。

吉本隆明はこう語っている。《「戦後すぐに、児玉誉士夫と宮本顕治と鈴木茂三郎が大学に来て、勝手なことを講演して帰っていったことがあるんです。なかで、もっとも感心したのは児玉誉士夫の話で、米軍が日本に侵攻してきた時に日本人はみんな死んでいて焦土にひゅうひゅうと風が吹き渡っているのを見たら連中はどう思っただろう(笑)、と発言して、ああいいことを言うなと僕は感心して聞きました。」》(136p) 加藤典洋、高橋源一郎、瀬尾育生との座談会での発言だ。「(笑)」は、戦中を生きた者と、それを理解できない戦後の人間の落差を示す。「最終戦争」の思いはすっかり風化させられていた。そして今、その「風化」の挙句の戦争への歩みがあるとすれば、命がけで押しとどめねばならないと思う。

日刊ゲンダイ5.13-1.jpg日刊ゲンダイ5.13-2.jpgいつもは西側プロパガンダのままだが、時折正気に戻る「日刊ゲンダイ」が、大事な記事を書いた。→「<国民は本当にそれでいいのか>戦争国家に向けて準備着々(日刊ゲンダイ)」http://www.asyura2.com/22/senkyo286/msg/464.html

《11日成立した経済安全保障推進法。新聞テレビでは、<経済安全保障は、国民の生命や財産を守る安全保障に政府の経済政策や企業活動を結びつける考え方><半導体や医薬品など国民生活に欠かせない重要な製品「特定重要物資」が安定的に供給されるよう、企業の調達先を調査する権限を国に与える><サイバー攻撃を防ぐため、電力や通信などインフラを担う大企業が、重要な機器を導入する際に、国が事前審査を行えるようにする><軍事利用されかねない技術の情報公開を制限したりする>などと解説されているが、法律の狙いはズバリ、欧米諸国と対立を深める中国やロシアへの経済的依存からの脱却。そのための統制強化だ。・・・経済面より軍事的な包囲網が優先された法律です。世界の科学技術の潮流を考えれば、長期的に日本経済はガタガタになりますよ。日本の多くの人の認識と違うのは、いまや中国は、米国を抜いて世界トップの研究レベルにあること。そのシェアは25%近くを占めています。一方、日本は2%程度。つまり、日本から2%分の技術流出を止めれば、中国からは日本へ25%分が止まる。日本の受ける被害の方が圧倒的に大きく、バカげた法律なのです」(元外務省国際情報局長・孫崎享氏)》反対したのは共産党とれいわ新選組だった。法案が可決された5月11日の参議院本会議では、共産党から田村智子・参議院議員が反対討論に立ち、「漠とした不安や恐怖を煽り、仮想敵を前提とした安全保障戦略に企業活動や研究開発を組み込むことは、民間企業や大学等への国家権力による監視や介入をもたらす」などと訴えた。 同じく反対したのがれいわ新選組。山本太郎代表は4月15日、議員辞職の意向を示した記者会見上でも経済安保政策に言及。「これまで最大限日本の生産能力を低下させ海外に移し、労働者をどんどん切って空洞化させた。今更フォローするようなことをやっていくのは、火をつけて消火器を売りつける商法と一緒だ」と批判した。》https://news.yahoo.co.jp/articles/a479f6967f9e718ad85cc80f9374b665fe2b89ad?page=3

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『神やぶれたまはず』再々読(2) [本]

第4章は太宰治。《「厳粛とは、あのやうな感じを言ふのでせうか。私はつつ立ったまま、あたりがもやもやと暗くなり、どこからともなく、つめたい風が吹いて来て、さうして私のからだが自然に地の底へ沈んで行くやうに感じました。/死なうと思ひました。死ぬのが本当だ、と思ひました。・・・ああ、その時です。背後の兵舎のはうから、・・・トカトントンと聞えました。」(「トカトントン」)(71-72p)著者(長谷川)の言葉、《”君の幻聴がどこから生じてゐるかは明らかで、それは君が自分の耳にふたをした、その耳栓のたてる音にほかならないのだ。君は、ひとたび天籟を聞きながら、その沈黙の深さに耐へられなくて、大いそぎで耳栓をしてしまつた。・・・勇気を出して耳栓をはづし、あの一瞬の静寂に耳をかたむけてみたまへ。そこにひろがる本物の「無」の淵をのぞき込んで戦慄したまへ。そのとき、君のちゃちな幻聴などたちまち止んでしまふことだらう。”》(82-83p)と言いつつ、その後では、トカトントンの音は、真理から耳をふさいでゐるが故に聞こえてくる音なのではない。むしろそれは、もつとも戦慄すべき事実ーー「死ぬのが本当」なのに、その道が閉ざされてしまつてゐるという事実ーーを、くりかえし目の前に呼び出し、つきつけてくる音なのである。》(91p)「最終戦争」であったはずが、敗れてなお生きねばならなかった戦後、三島由紀夫は、《無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう。》(84p)と言い放ってその数ヶ月後、自から命を絶った。《悲壮も厳粛も消え失せた〈トカトントンの日本の姿〉がある。》さらにそれから40年、《単なる「経済的大国」でゐつづけることすらできな》くなり、《現在の日本の精神的麻痺状態は、まさにこの、トカトントン」症状の最終段階にまで達してゐると言ふべきであらう。》(84-85p)「あの一瞬」に還るしかない。
第5章、伊東静雄。その日記の一節、《「十五日陛下の御放送を拝した直後。/太陽の光は少しもかはらず、透明に強く田と畑の面と木々とを照し、白い雲は静かに浮び、家々からは炊煙がのぼつてゐる。それなのに、戦は敗れたのだ。何の異変も自然におこらないのが信ぜられない。」》(101p)ここに至る日々を桶谷が語る。《「この最後の日々は、日本の歴史においてかつてなかつた異様な日々であつた。梅雨が明けると夏空はいやましに澄みわたり、匂ひ立つ草木のみどりが、人びとにけふのいのちの想ひをさらに透明にした。/マリアナ、硫黄島、沖縄の基地から連日やつてくるB29爆撃機の空襲は、大都市から中都市に範囲をひろげ、焦土廃墟の地域が急激に増えていつた。/家を焼かれ、肉親を失ひ、着のみ着のままで、食べるものも満足にない多くの日本人が、何を考へて生きてゐたかを、総体としていふことはむづかしい。/ただひとついへることは、平常時であれば人のくらしの意識を占める、さまざまの思ひわづらひ、利害の尺度によつてけふとあすのくらしの方針をたてる考へ方が捨てられたことである。何らかの人生観によって捨てられたのではなく、さういふ考へ方を抱いてゐても無駄だつたからである。/もちろん、人の生き方はさまざまであり、口に一億一心をとなへながら、疎開者から取って置きの衣類を巻きあげて闇米と交換する農民や、都市の焼跡の二束三文の土地をせつせつと買ひ占める投機者はいくらでもゐた。/しかしそんな欲望も、本土決戦が不可避で在るといふ思ひのまへには、実につまらない、あさはかなものにみえた。/あすのくらしの思ひにおいて多くの日本人が抱いてゐたのは、わづかばかりの白米、あづき、砂糖を大事にとつて置いて、いよいよとなつたらそれらを炊いて食べて、死なうといふことであつた。」》(112-113p)コロナ禍を引きずり、さらに深刻な食糧危機を迎えようとしているる今、この文章、むしろ親しくさえ思える。
第6章は磯田光一。桶谷が「”その瞬間”まで」にこだわり続けたのに対し、磯田の関心は、「”その瞬間”の後」だった。《ただもつぱら「生の方へ歩きだした日本人」だけに目を向けてゐる。》(116-117p)

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『神やぶれたまはず』再々読(1) [本]

神やぶれたまはず.jpg『神やぶれたまはず』、自分のも含めてアマゾンレビューのいくつかを読んで、あらためて読まねばと思って開いた。

序の書き出し、《一国の歴史のうちには、ちやうど一人の人間のうちにおいてもさうであるやうに、或る特別の瞬間といふものが存在する。その瞬間の意味を知ることが、その国の歴史全体を理解することであり、その瞬間を忘れ、失ふことが、その国の歴史全体を喪失することである、といった特別の瞬間ーーさうした瞬間を、われわれの歴史は確かに持つている。/わたしがいまここでしようとしてゐるのは、その瞬間をもう一度ありありとわれわれの心に甦らせ、その瞬間の意味を問ひ、そしてその答へを得ることである。》(1p)

折口信夫を語った第1章、《われわれにとっての大東亜戦争は、決して単なる、他の手段をもってする政治などではなく、或る絶対的な戦争だったということ。そして、もし「日本の神学」といふものが構築されうるとすれば、その基はこの「絶対的な戦争」の経歴以外のところには見出されえない》(29p)当時の日本人の意識において、たしかに石原莞爾の言う「最終戦争」だったのだ。そうしてこそ国挙げて戦い得た戦争であった。間違っても、どこぞの「属国」が取り組んだ戦争ではない。《しかしそれにしても、日本人の大東亜戦争の経験の、いったいどこに「絶対的」なものがひそんでゐるといふのだろうか?》(30p)と結ぶ。

橋川文三の第2章、《氏自身の「戦争体験」ーーその底に、「イエスの死の意味に当たるもの」をかいま見た体験ーーの記憶があったのに違ひない。》(36p)

第3章は桶谷秀昭。《「精神過程の上で、昭和21年末までに、大きな 変質が日本人に起った。・・・昭和精神史における”戦後”とは、大枠において、過去の日本を否定し、忘却しようとする意識的な過程である。」》(48p)河上徹太郎の語る言葉に注目する。《「国民の心を、名も形もなく、たゞ在り場所をはつきり抑へなければならない。幸ひ我々はその瞬間を持った。それは、八月十五日の御放送の直後の、あのシーンとした国民の心の一瞬である。理屈をいひ出したのは十六日以後である。あの一瞬の静寂に間違はなかった。又、あの一瞬の如き瞬間を我々民族が曽て持つたか、否、全人類であれに類する時が幾度あったか、私は尋ねたい。御望みなら私はあれを国民の天皇への帰属の例証として挙げようとすら決していはぬ。たゞ国民の心といふものが紛れもなくあの一点に凝集されたといふ厳然たる事実を、私は意味深く思ひ起こしたいのだ。今日既に我々はあの時の気持と何と隔りができたことだらう!」》桶谷、《そのとき、人びとは何を聴いたのか。あのしいんとした静けさの中で何がきこえたのであらうか・・・『天籟』を聴いたのである・・・彼(『斉物篇』の隠者)は天を仰いで静かに息を吐いた。その時の彼の様子は、『形は槁木(枯れ木)の如く、心は死灰の如く』『吾、我を喪ふ』てゐるやうであつたといふ。(61p)(つづく)

以下は、アマゾンレビューのいくつか。

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