人勧による給与減額案に反対しました(付 一般質問通告) [議会]
「近代文明の本質」(維新の会批判/国民民主党への期待) [緊急事態条項]
新・mespesadoさん講義(107)落ち着け! [mespesado理論]
「やまがた再発見」に宥明上人登場!(山形新聞) [宥明上人]
新・mespesadoさん講義(106)製薬世界の「残虐性」 [コロナ危機]
政治家やVIPがワクチン接種する際には、必ず私が立ち会いました。全員1を受けました。そんな具合に、彼らがマスコミの前でパフォーマンスとしてワクチンを打つときには、毎回同じ看護師が担当するようにしていました」》https://note.com/nakamuraclinic/n/nde82dde16e29
「菊池さんという方の長編の哲学的論考」は、こういう世の中に至らしめたのは何なのかについての原理的考察としても読めました。別記事にします。
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新・mespesadoさん講義(105)二つの蒙 [mespesado理論]
新・mespesadoさん講義(104)「サヨク」的危うさへの警戒 [緊急事態条項]
新・mespesadoさん講義(103)ワ○チ○強制接種から救う唯一の方向性 [mespesado理論]
「北条郷郷村出役北村孫四郎に見る鷹山公改革の現場」(市民大学資料) [上杉鷹山]
目賀多信済(めかた・のぶずみ) による肖像画
米沢藩御用絵師。1786〜1847(天明6-弘化4)年。出羽国米沢生まれ。小納戸役の矢嶋欽右衛門長寄の三男であったが、目賀多信與の養子となり、雲川と号す。ほかに雲林、幽石、適意斎などとも号した。1801(享和元)年信與の隠居に伴い16歳で家督を継ぐ。のちに第11代藩主上杉斉定(1788-1839)の絵事勤仕として仕えた。1819(文政2)年、鍛冶橋狩野家七代の狩野探信守道に入門し、修業を積む。山水、人物、竜虎、花鳥のいずれにも優れ、目賀多家の門人である下條桂谷は「墨色やや濃しと雖も、谷文晁に匹敵すべき大家なり」と激賞、南・北目賀多家を通じ最も傑出した名人と伝わる。弟子に若井牛山、百束幽谷らがいる。62歳没。米沢の信光寺に眠る。主な作品:《山水図屏風》《布袋図》など。(https://artscape.jp/study/artachive/10143321_1982.html)
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◎はじめに
・莅戸善政建言書案 (安永3年(1774)3月13日 上杉博物館蔵)
藩主となって7年目、24歳の上杉鷹山に向け、小姓頭の莅戸善政が記した意見書の下書。
①これまでの政治は家臣を頼ってぱかりだったが、鷹山自身身が政治に心を注ぐこと。
②家臣や諸役人が尽力しても、君主(鷹山)が努力しなければ、「砂山を上り、虚空をつかんで天に昇ろう」とするようなものだ。
③日常、「あらぬ無駄口話、軽口はずみ」に時間を過ごし、自分の意見がない。
④学問の意味が分からないのか、ただ本を面白いと読み流すだけで、政治に応用していない。
⑤服装や仕草が江戸風ともいうべきか、俗にいう色男、伊達男、あるいは「女郎」のようなので、威儀を正すよう注意すること。
【存寄(ぞんじより)】
高鍋藩が17世紀末ごろから顕著に見える施策で、家中士に積極的に藩政に対して献言(意見の具申)、献策を させる「下意上聞」の体制。
江戸麻布のお屋敷邸で、幼ない鷹山公の御養育係をしていた三好善大夫重道は、鷹山公の養子縁組に際し贈った『はなむけの書』も存寄の一環と言える。《身分の上下を問わず、わが身に天より受けた明徳を曇らせないように御修業なさることを専らにお考え下さい。その理由は、身分賤しい者でも、自分が心を清く明るくもち、善い行いをしない時は、小さな家でも治まりません。まして身分の高い御方は、御自分が曇りのない鏡のような御心でないと、下々の善悪を見分けることができません。・・・善人が遠ざかり悪人が近づくようになりましては、自然と君主でも悪に移ります。それが小さいことであれば身を失いますし、大きいことであれば家を亡ばし国民に難儀が及びます。従いまして、絶対に御修業が大切でございます。・・・善と悪ほ両立いたしません。善に進めば悪が退き、悪が行われれば善が消えるものでございます・従いまして仮初にも悪事に傾かれることなく、善い事にお進みなされることが大切でございます。》(『米沢風土記』https://ameblo.jp/yonezu011/entry-11272051141.html)鷹山公は、この書を生涯座右の銘とし処世の鑑として大切にした。
平成25(2013)年、「白鷹山に『伝国の辞』碑をつくる会」発会総会での遠藤英先生のお話がいつも頭にありました。《鷹山公を美化してヒーローにしてはいけない。あの人は天才なんだ、神様みたいな人なんだと言っちゃうと、われわれは真似ができなくなってしまう。鷹山公は、今の高校生ぐらいで殿様になった。それから名君と呼ばれるようになるまで、どれだけの失敗と苦労があったことか。鷹山公をひとりの人間として追っかけてゆくと、失敗したり、あれこれ工夫したり、みんなで知恵を出し合ったりという実際いろんなことがある。それが全部われわれに役に立つ。われわれと同じようなその辺りの人ががんばったんだということで、われわれの手本になる。すばらしい人で、目標にすべき人ではあるんですけど、あまり棚の上に載せてしまわないで、丁寧に見ていただいて真似をしていきたいなと思うのです》
◎鷹山公の改革(小関悠一郎『上杉鷹山ー「富国安民」の政治』岩波新書による)
←図録『上杉鷹山の生涯〜藩政改革と家臣団』(上杉博物館2021)より
・宝暦元年(1551)鷹山公誕生
・宝暦10年(1760)上杉家世子に。北条郷青苧騒動
・宝暦13年(1763)竹俣当綱により森平右衛門誅殺
・明和4年(1767)鷹山公藩主就任。明和・安永の改革(竹俣当綱)
・明和6年(1769)鷹山公、米沢に初入部
・安永2年(1771)大旱魃(鍋田念仏踊発祥)
・安永4年(1773)七家騒動
・安永6年(1775)漆・桑・楮、各100万本植生着手
・安永7年(1776)興譲館再興
・天明2年(1782)竹俣当綱隠居
・天明3年(1783)飢饉始まる。莅戸善政隠居
・天明4年(1784)鷹山公隠居。「伝国の辞」を治広に
・天明7年(1787)郷村出役廃止
・寛政2年(1790)藁科立遠「管見談」
・寛政3年(1791)莅戸善政中老になり寛政の改革始まる
・寛政4年(1792)郷村出役復活
・寛政6年(1794)黒井堰完成
・享和元年(1801)「伍什組合」始まる
・享和2年(1802)「かてもの」刊行
・享和3年(1803)莅戸善政死去。莅戸政以による「第三の改革」へ
・享和4年(1804)北村孫四郎、北条郷郷村出役に就任
・享和5年(1805)「北条郷農家寒造之弁」