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足立守先生へのお別れの言葉 [弔辞]

足立守先生 .jpgアヤコ先生と共に40年の間宮内幼稚園のために尽くされた足立守先生が10月11日亡くなられ、お別れ会が11月23日出雲市ののぞみ教会で行われた。アヤコ先生が亡くなられたのが2018年11月14日。翌年の3月、告別式に参列してきた。→「アヤコ先生お別れ会(出雲のぞみ教会)」https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2019-04-01  アヤコ先生同様、島根大学に献体されたという。93歳だった。

宮内幼稚園関係では、松江在住の多勢久美子さんhttps://oshosina.blog.ss-blog.jp/2018-03-23も含め11人が参列とのこと。宮内を去られてから18年経過していても、守先生を偲んでこれだけの人が駆けつけた。いいお見送りができたと聞いた。私はお別れの言葉を宇津木純子園長兼理事長に託した。

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お別れの言葉 
 
 本来なら私がこの場でお別れの言葉を申し上げねばならないところ、今年の3月不覚にも脳梗塞で右足がまったく言うことを効かなくなりリハビリ中の身ですので、宇津木理事長に託して、足立守先生への思いを述べさせていただきます。
 私の守先生、アヤコ先生との最初の出会いは、今から65年前の昭和34年5月、私が小学6年生の時でした。日曜学校の礼拝から帰って「くるみ団子とたまり団子」とお二人の印象を親に報告したのを覚えています。宮内幼稚園創立8年目で第4代、28歳の若い園長先生でした。
 出雲で広くそろばんを商う商家に生まれたという守先生の経営手腕は幼稚園経営にいかんなく発揮されました。町では「キリスト幼稚園」とよばれて特別視され、まだマイナーだった宮内幼稚園は、足立先生ご夫妻の力で名実共に「宮内幼稚園」へと大きく発展してゆきます。赴任されてすぐ母の会の力を結集してピアノ購入のための募金を開始、12万円を集めて新しいピアノを購入するやただちにピアノ教室が始まります。その次の年には町からの補助30万円と20万円の募金で園地139坪を拡張、さらに保育室の拡充と、園児数の増大を見込んで次々手を打たれます。
 アヤコ先生は揺るぎない幼児教育の信念のもとに子供たちへの教育、先生たちへの指導に力を注ぎ、守先生は園の将来を見据えて早くからロータリークラブに入会するなど、地域に深く根を下ろし地元からの厚い信頼を得るようになってゆきます。その結実が、昭和52年の学校法人南陽学園の認可とあわせた園舎全面改築の大事業でした。総事業費6000万円のうち2000万円は地元からの寄付によってまかなわれました。こうして昭和から平成にかけた時代、在籍園児数は今の倍、200名を超えていたのです。
 守先生は対外的活動にも積極的でした。今もつづく「南陽菊の音楽祭」や、今年30周年を迎えた「山形いのちの電話」は足立先生あっての事業でした。この度亡くなった谷川俊太郎さんなど当代一流の詩人を招いて、幼稚園のホールを会場に何年かつづいた「詩人の会」は、今でも語りぐさです。
 守先生はアヤコ先生と共に平成10年までの40年にわたって宮内幼稚園のために力を尽くされました。最後の年には山形県教育功労者として表彰されました。平成18年に宮内を去られる時の「足立先生 ご夫妻を送る会」には200名の方が集って名残りを惜しみました。   
 
 私が高校卒業後10年間外で過ごして家に戻ってまもなくの頃、足立先生から呼び出されました。幼稚園の同窓会をつくりたいと言われたのです。昭和57年4月、創立30周年を機に宮内幼稚園同窓会が発足しました。平成11年には幼稚園としてはまれな同窓会名簿が数年がかりでできました。人を動かすことが上手な守先生の手中にあって、いつの間にか評議員から理事になり、果ては考えてもみなかった理事長の役目を15年間果たすことになりました。平成23年東日本大震災が襲い、耐震検査の結果、大幅改修もしくは全面改築を迫られることになりました。文部省管轄の幼稚園と厚労省管轄の保育園の一体化という国の流れに沿って、平成26年9月「宮内認定こども園」として新たなスタートを切りました。以来10年、まずは順調な歩みを進めています。しかし、なんと言っても心残りは足立先生に新しい園舎を見ていただけなかったことです。
 宮内幼稚園は昭和26年宮内で講演された賀川豊彦先生の「50年後100年後の人材を」との願いを受けて設立されました。賀川先生は昭和7年5月、犬養首相が暗殺された直後にも宮内においでになり歌1首を残されています。「花すぎて緑の山に小鳥鳴く世のさわがしさ気にとめぬごと」。賀川先生には閉ざされた町のイメージの宮内でした。そんな宮内にあって、宮内幼稚園はいわば世界に開かれた窓の役割を果たしていました。宮城学院女子大学のランディス先生を招いた月2回の英会話教室に象徴されるやうに、守先生はまさに「世界に開かれた窓としての宮内幼稚園」を形づくり、アヤコ先生とともに多くの人材を送り出してくださいました。
 幼稚園時代の記憶などは大人になればすっかり忘れてしまうのが普通です。私もそうでした。しかし、20代後半10年ぶりにふるさとへ戻って間もなく、足立先生から引っ張られてさまざまなかたちで幼稚園に関わるようになって、幼稚園時代の記憶がよみがえるごとに、その当時のことがいかに自分の基礎を形づくっているか、まざまざと思わされるのでした。それを思うにつけ、守先生がアヤコ先生と共に、宮内に育った人たちにどれだけ甚大な影響を及ぼされたかを思います。
 先生は教会、幼稚園の仕事を退かれた後は、町内のためにもご尽力されました。当時町内の自治組合長の役にあった先生が、夏の熊野大社のお祭りの時、昔からの祭り装束である麻の行衣に身を固めて、みんなに溶け込んでおられた姿が忘れられません。先生が半世紀近くを過ごされた宮内の地を、これからも大切に思い続けていただけると信じます。東北と出雲の地、古来深いゆかりあるような気がします。先生の御魂がなおわれわれの中で生き続け、お見守りくださることを念じて、お別れの言葉といたします。ありがとうございました。

    令和6年11月23日           
          
 

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