徳田虎雄先生のお別れの会 [徳田虎雄]
昨日徳田先生のお別れの会(東京会場)でした。元気な身体なら参列したかったのですが、私なりのケジメとして弔辞めいたものを書いてみました。9月20日に家の中で転倒して大腿部を強く撃ち、筋肉内出血で血腫ができ、椅子にも座れないような状態が1ヶ月近く続いていました。そんなこんなでなんとかギリギリ21日に徳田先生への思いを書き上げ、御霊前に奉呈していただくよう送りました。
先に、お別れの会に使いたいというので、石川一郎本部長が山形の事務部長時代「全国の徳洲会施設に送りたい」と大量に作った「徳田理事長の手帳」幕を10枚作って送ったところでした。(そもそもこの幕は徳洲会新庄病院開院10周年の時に、成田政彦事務長の発案で作ったと記憶します。)うれしいことでした。
思い起こすと書きたいことはまだまだありますが、今の時点での「お別れの言葉」です。↓
* * * * *
どのようなかたちであれ、徳田先生が生命永らえておられることが、われわれにとっては励みであり支えでした。いよいよ亡くなられた今、さらに深く重く心の中に生き続けていただけることを確信しつつ、けじめとしてのお別れの言葉を書き連ねさせていただきます。
最後にお会いしたのが山形徳友会のメンバーで葉山ハートセンターを訪ねた 2009年2月19日でした。この時の記念写真にはいくつもの透明の球状のものが写っていました。オーブ(たまゆら)と言うそうです。徳田先生に救われた生命の御霊が先生を守っているように思われました。あの時の先生との握手の感覚が今も甦ります。あれから15年経ちました。https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2009-02-26
思い起こせば最初にお会いしたのは今から43年前の1981年3月14日、隣町の高畠での講演会でした。中学生の哲君も一緒でした。終了後の食事の席で、赤字に苦しむ南陽市立病院のために南陽で講演いただくことをお願いしました。
5月22日の南陽市宮内での講演会は立ち見が出るほどの盛況でした。講演に先立ち、南陽市立病院を視察していただきアドバイスをいただいてもいました。講演後の懇親会には病院長はじめ若い先生方も参加されました。この講演会を機に南陽獅子の会が生まれ置賜獅子の会へと育っていったのでした。
獅子の会は、経済成長が達成を見た中で安逸に流れる青年層に喝を入れ、志ある若者を育て上げようという全国組織でした。その会則には「政治・経済・文化の各分野のスーパースターを育成」を謳っていました。徳田先生の期するところ、獅子の会を基盤にした参議院全国区での上位当選でした。しかし、徳田先生の政界進出を阻止するかのように1983年から政党名で投票する拘束名簿式の比例代表制に変更され、全国の獅子の会もいつしか立消えになったようです。そうした中で、徳洲会病院誘致にこだわり、そのプロセスで徳田先生の薫陶を受けたわれわれ置賜獅子の会は、時には猫の子会と揶揄されながらもこれまで命脈を保ってきました。1991年には徳田先生からの申し出があり、南陽で講演会を開催しました。
しかし、われわれの徳田先生率いる徳洲会への並々ならぬ思い入れにも拘らず、山形県4地域のうち、1991年に庄内余目病院、1998年に新庄徳洲会病院、2004年には山形徳洲会病院がオープンというのに、置賜には今もって徳洲会はありません。その代わりに2000年に置賜にできたのが、県と二市二町による公立置賜総合病院でした。私どもの徳洲会誘致の動きを察知した県が、建設費5割負担を急遽8割負担にしたことで一挙に計画が進んだのでした。徳田先生には「経営が立ち行かなくなったら徳洲会で引き受けるから、できるだけいい病院を建ててもらえ」と言っていただきました。
実は私、今年3月脳梗塞で右下肢不随となり、公立置賜総合病院に1ヶ月、リハビリの病院に4ヶ月の長期入院生活を余儀なくされたところでした。決して不快ではない入院生活の中でいつも頭に浮かぶのが徳田先生でした。
日本の医療は徳洲会出現以前と以後で根底から変わりました。「年中無休24時間オープン」があたりまえになりました。「医療は患者さんのためにある」の言葉で、医師や看護師から見て弱い立場だった「患者」が、「患者さん」として大事にされるようになりました。医師や看護師に贈り物をするというかつての「常識」が、今では「非常識」になりました。病院生活を送りつつ「こうして不満もなくスタッフに感謝しつつ毎日過ごせるのも徳田先生のおかげ」と正直そう思い、徳田先生の熱い口調を懐かしく思い起こすのでした。
1991年、南陽で講演していただいた時、徳田先生が提唱する実力100倍の目標設定について語り合い、置賜獅子の会として、「21世紀、置賜は世界の中心となる!」とぶちあげました。21世紀になって四半世紀経った今も、この目標はわれわれの行動の原点です。経済一辺倒ではない新しい時代の価値を求めて次代を切り拓くつもりでおります。
新型コロナによる混乱はいまだ跡を引いています。予防接種健康被害救済制度で厚労省からコロナワクチンによる死亡と認定された件数は、令和6年10月7日で867件に及んでいます。全く健康な人がワクチンによって命をおとしたのだから、たとえ1件でも大騒ぎのはずなのに、なぜか国もマスコミも騒ぐ気配がありません。1991年の講演で「世界の厚生省を目指す」と言われた徳田先生、今の日本をどう見ておられるか。政界も経済界もさらに言えば医療界も、「医薬利権」の泥沼にどっぷりはまってしまって、人の生命が二の次、三の次になっていはしまいか。あらためて「生命だけは平等だ」の意味するところの重さを感じさせられます。
実は、今年の2月16日、昔のメンバー8人に新顔4人が加わって「置賜獅子の会」再活性化準備会を開いたところでした。https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2024-02-17 置賜には徳洲会のハード(施設)がない代わりに、徳田先生に叩き込まれたソフト(精神)面を次代に生かし伝えようということで盛り上がりました。その後まもなく私が倒れてしまい頓挫していますが、火は消えてはおりません。「21世紀、置賜は世界の中心になる!」をスローガンに、若い世代と共に新しい時代を切り拓いてゆく覚悟です。徳田先生のこれまでの薫陶に深く感謝しつつ、冥界よりの今後のお導きを切にお願いして、お別れの言葉とさせていただきます。
令和六年十月二十三日
置賜獅子の会
代表 髙岡 亮一
最後にお会いしたのが山形徳友会のメンバーで葉山ハートセンターを訪ねた 2009年2月19日でした。この時の記念写真にはいくつもの透明の球状のものが写っていました。オーブ(たまゆら)と言うそうです。徳田先生に救われた生命の御霊が先生を守っているように思われました。あの時の先生との握手の感覚が今も甦ります。あれから15年経ちました。https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2009-02-26
思い起こせば最初にお会いしたのは今から43年前の1981年3月14日、隣町の高畠での講演会でした。中学生の哲君も一緒でした。終了後の食事の席で、赤字に苦しむ南陽市立病院のために南陽で講演いただくことをお願いしました。
5月22日の南陽市宮内での講演会は立ち見が出るほどの盛況でした。講演に先立ち、南陽市立病院を視察していただきアドバイスをいただいてもいました。講演後の懇親会には病院長はじめ若い先生方も参加されました。この講演会を機に南陽獅子の会が生まれ置賜獅子の会へと育っていったのでした。
獅子の会は、経済成長が達成を見た中で安逸に流れる青年層に喝を入れ、志ある若者を育て上げようという全国組織でした。その会則には「政治・経済・文化の各分野のスーパースターを育成」を謳っていました。徳田先生の期するところ、獅子の会を基盤にした参議院全国区での上位当選でした。しかし、徳田先生の政界進出を阻止するかのように1983年から政党名で投票する拘束名簿式の比例代表制に変更され、全国の獅子の会もいつしか立消えになったようです。そうした中で、徳洲会病院誘致にこだわり、そのプロセスで徳田先生の薫陶を受けたわれわれ置賜獅子の会は、時には猫の子会と揶揄されながらもこれまで命脈を保ってきました。1991年には徳田先生からの申し出があり、南陽で講演会を開催しました。
しかし、われわれの徳田先生率いる徳洲会への並々ならぬ思い入れにも拘らず、山形県4地域のうち、1991年に庄内余目病院、1998年に新庄徳洲会病院、2004年には山形徳洲会病院がオープンというのに、置賜には今もって徳洲会はありません。その代わりに2000年に置賜にできたのが、県と二市二町による公立置賜総合病院でした。私どもの徳洲会誘致の動きを察知した県が、建設費5割負担を急遽8割負担にしたことで一挙に計画が進んだのでした。徳田先生には「経営が立ち行かなくなったら徳洲会で引き受けるから、できるだけいい病院を建ててもらえ」と言っていただきました。
実は私、今年3月脳梗塞で右下肢不随となり、公立置賜総合病院に1ヶ月、リハビリの病院に4ヶ月の長期入院生活を余儀なくされたところでした。決して不快ではない入院生活の中でいつも頭に浮かぶのが徳田先生でした。
日本の医療は徳洲会出現以前と以後で根底から変わりました。「年中無休24時間オープン」があたりまえになりました。「医療は患者さんのためにある」の言葉で、医師や看護師から見て弱い立場だった「患者」が、「患者さん」として大事にされるようになりました。医師や看護師に贈り物をするというかつての「常識」が、今では「非常識」になりました。病院生活を送りつつ「こうして不満もなくスタッフに感謝しつつ毎日過ごせるのも徳田先生のおかげ」と正直そう思い、徳田先生の熱い口調を懐かしく思い起こすのでした。
1991年、南陽で講演していただいた時、徳田先生が提唱する実力100倍の目標設定について語り合い、置賜獅子の会として、「21世紀、置賜は世界の中心となる!」とぶちあげました。21世紀になって四半世紀経った今も、この目標はわれわれの行動の原点です。経済一辺倒ではない新しい時代の価値を求めて次代を切り拓くつもりでおります。
新型コロナによる混乱はいまだ跡を引いています。予防接種健康被害救済制度で厚労省からコロナワクチンによる死亡と認定された件数は、令和6年10月7日で867件に及んでいます。全く健康な人がワクチンによって命をおとしたのだから、たとえ1件でも大騒ぎのはずなのに、なぜか国もマスコミも騒ぐ気配がありません。1991年の講演で「世界の厚生省を目指す」と言われた徳田先生、今の日本をどう見ておられるか。政界も経済界もさらに言えば医療界も、「医薬利権」の泥沼にどっぷりはまってしまって、人の生命が二の次、三の次になっていはしまいか。あらためて「生命だけは平等だ」の意味するところの重さを感じさせられます。
実は、今年の2月16日、昔のメンバー8人に新顔4人が加わって「置賜獅子の会」再活性化準備会を開いたところでした。https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2024-02-17 置賜には徳洲会のハード(施設)がない代わりに、徳田先生に叩き込まれたソフト(精神)面を次代に生かし伝えようということで盛り上がりました。その後まもなく私が倒れてしまい頓挫していますが、火は消えてはおりません。「21世紀、置賜は世界の中心になる!」をスローガンに、若い世代と共に新しい時代を切り拓いてゆく覚悟です。徳田先生のこれまでの薫陶に深く感謝しつつ、冥界よりの今後のお導きを切にお願いして、お別れの言葉とさせていただきます。
令和六年十月二十三日
置賜獅子の会
代表 髙岡 亮一
東京で故徳田氏お別れの会 医療、政治で貢献1600人以上が参列
https://news.yahoo.co.jp/articles/364189d344e67a16f54b771b0f7078abdb945c85
10/24(木) 11:41配信
奄美新聞
徳田氏がほほ笑む遺影の祭壇。円内は列をつくった会場の様子
【東京】医療法人徳洲会グループ創設者で、政治家としても活躍した徳田虎雄氏(享年86歳)の「お別れの会」が23日、港区のホテルで開催された。幅広い層から慕われた徳田氏を象徴するように強い雨にもかかわらず、多くの関係者が訪れ、故人をしのんだ。28日には大阪に会場を移して行われる。
徳田氏は「生命(いのち)だけは平等だ」との信念で、特に離島やへき地の医療充実を図り、救急医療体制の構築に尽力した。医療法人・徳洲会の創設者の一方で、衆院議員としても活躍。1990年衆院選に旧奄美群島区から出馬し、初当選。同区では保岡興治元法相と群島を二分する「保徳戦争」も繰り広げ、村山富市内閣では沖縄開発政務次官(95~96年)として奮闘した。
港区高輪のグランドプリンスホテル新高輪・国際館パミールで行われた「徳田虎雄お別れの会」には、故人の笑顔に誘われるように出身者や医療界、政界から関係者ら1643人が参列した。広い会場には、献花に並ぶ6列が途絶えることなく続き、中島みゆきさんの「ヘッドライト・テールライト」がチェロの調べで繰り返し流された。徳洲会の石川一郎本部長は「いつでも、どこでも誰もが最先端の医療をとの遺志は、まだ道半ば。歩みは止まらないとの思いで選曲した」と説明した。
徳田氏の業績パネルには多くが興味深く見入っていた
埼玉・狭山市からつえをついて来場した森孝さん(84)=福岡県出身=は『徳田虎雄に育てられた男』(万代宝書房)の著書もある元徳洲会副総長。「俺の代わりに秀子(徳田氏夫人)と世界を回れと命令され、いろんな所へ行きました」と思い出を語り、「3回目のお別れ会だが、来年もあるような気がする。それほど深く交わった」と感慨深く語った。
別会場では手帳や名誉理事長時代に履きつぶしたイタリア製の革靴、数々のエピソードと写真がパネル展示され、徳田氏の業績に多くが見入っていた。故人を思い出したのか、あるスタッフはハンカチで目頭を押さえていた。
東京奄美会顧問で和泊町出身の森眞一さんは「すごいのは、日本のみならず世界を見据え活躍されたこと」と偉業をたたえていた。
徳之島徳洲会病院長などを歴任後、政治家へ転身した大久保明伊仙町長は「離島の医療への貢献度は絶大で、彼の原点は島にあると多くの人と改めて話した」とお別れ会を振り返った。また、徳洲会グループが今以上に住みやすい島になるようにと掲げる「ヘルシー・リゾート・アイランド構想は「実現可能だと確信した」と残された後輩たちへエールを送るように力説した。
参列者を笑顔で迎えた徳田氏。遺影の下には白いユリが飾られ献花と同じ白いカーネーションが祭壇を埋め尽くした。徳洲会グループをかたどった鳩(はと)は、赤いカーネーション(花言葉は真実の愛)と緑のてまり草(同・永遠の幸福)だった。
by めい (2024-10-25 11:15)
「愛郷無限」「全力投球」徳田虎雄さんお別れの会 - パネルで故人偲ぶ
https://news.yahoo.co.jp/articles/4abbf11a91754c6df2015b2c2e73f8e63cee10f6
10/23(水) 18:20配信
医療介護CBニュース
民間最大級の病院グループ「徳洲会」の創設者で、7月10日に亡くなった徳田虎雄さんの「お別れの会」が23日、東京都内で開かれ、医療関係者や一般の人たち約1,600人が献花した。【兼松昭夫】
会場には、「徳田虎雄理事長の手帳」や生前の写真などがパネル展示され、故人を偲んだ。
「愛郷無限」「有言実行」「人間主義」「全力投球」。
「いつでも、どこでも、誰でもが最善の医療を受けられる社会へ」。
パネルには、徳田さんが好きだった言葉も並んだ。
この日午前に開かれた式典では、徳田さんの親族や徳洲会幹部らが献花を行い、亀井静香・元衆院議員は「自分のことはさておいて、自分の身はさておいて、人のため、人のために尽くした」などと弔辞を述べた。
徳田さんは1973年、大阪府松原市に「徳田病院」(現在の松原徳洲会病院)を開院。75年には医療法人徳洲会を設立し、理事長に就任した。
90年には奄美群島区から衆院選に出馬し、初当選したが、2002年に筋萎縮性側索硬化症(ALS)の診断を受け、闘病中だった。
12年の衆院選を巡る徳洲会グループの公職選挙法違反容疑事件を受け、13年10月に理事長を退任した後は、グループの運営に一切関与していなかった。
徳洲会グループは現在、全国で77病院や診療所35カ所、介護老人保健施設42カ所などを運営している。
by めい (2024-10-25 11:20)
「虎さん…石原慎太郎と一緒に遊んでてくれよ」 医療改革にまい進した徳田虎雄さんのお別れ会 1500人が冥福祈る 都内
https://news.yahoo.co.jp/articles/f64b28a5cda10349a17bc86cc9853f78bac5f133
10/23(水) 20:37配信
南日本新聞
約1500人が参列した徳田虎雄さんのお別れの会=23日、東京都港区
7月に86歳で死去した医療法人「徳洲会」創設者で元衆院議員の徳田虎雄さん=鹿児島県徳之島町出身=のお別れ会が23日、東京都内のホテルであった。徳洲会が主催し、政界や医療界の関係者約1500人が参列。「生命だけは平等だ」と医療改革に取り組んだ故人をしのび、冥福を祈った。
【写真】〈関連〉弔辞を述べる亀井静香・元衆院議員=23日、東京都港区
大阪大学時代の同級生、塚本玲三・茅ケ崎徳洲会病院名誉院長は「君のすさまじい努力で日本の救急医療を中心とした臨床医療はレベルアップし、世界でも誇れるようになった」と感謝。亀井静香・元衆院議員は「自分のことはさておいて人のために尽くした虎さん。仲が良かった石原慎太郎と一緒に遊んでてくれよ」と遺影に語りかけた。
会場には「身も心も救う病院を世界中に」「弱きを助け悪しきをくじく」などの言葉がびっしり書き込まれた徳田さんの手帳を展示。式典後は一般参列者も受け入れた。
徳洲会は28日に大阪でもお別れの会を開く。11月12日に徳之島でしのぶ会を予定している。
by めい (2024-10-25 11:24)
医療発展の功績しのぶ 徳田虎雄氏お別れの会 1400人が弔問 徳之島町
https://www.nankainn.com/news/p-economy/%E5%8C%BB%E7%99%82%E7%99%BA%E5%B1%95%E3%81%AE%E5%8A%9F%E7%B8%BE%E3%81%97%E3%81%AE%E3%81%B6%E3%80%80%E5%BE%B3%E7%94%B0%E8%99%8E%E9%9B%84%E6%B0%8F%E3%81%8A%E5%88%A5%E3%82%8C%E3%81%AE%E4%BC%9A%E3%80%80
2024年07月22日
徳田虎雄氏の遺体と対面して別れを伝える弔問客ら=21日、徳之島町亀津(写真)
今月10日に亡くなった医療法人「徳洲会」グループの創設者、徳田虎雄氏のお別れの会が21日、同氏の地元である徳之島町の斎場で開かれた。島内外から約1400人が弔問に訪れ、奄美群島だけでなく、全国の医療の発展に力を尽くした同氏の功績をしのんだ。
葬儀は既に家族葬で済ませたが、秀子夫人の「できるだけ多くの島の人に故人の顔を見て見送ってもらいたい」との意向で、徳田家が主催して同氏の地元の徳之島町でお別れの会を開いた。
会は神道形式で執り行われ、近親者のみ参加の式典後に一般の弔問も受け付けた。会場には群島の市町村をはじめ、多くの関係者から届いた花が供えられ、弔問客らは焼香を済ませた後に徳田氏の遺体と対面。手を合わせて氏の偉業を振り返りながら冥福を祈った。
同氏の息子で元衆院議員の毅さん(53)は「誰よりも純粋で厳しさと優しさを持った父。医療、政治、病と闘い続けた苦難の人生だった。今はゆっくりと休んでほしい」と故人を悼み、「たくさんの人が別れを惜しんで会場に来てくれた。父も徳之島に帰ってきて皆さんに会えて喜んでいるはず」と感謝した。
弔問に訪れた富田保子さん(73)=同町花徳=は「祖母、母も徳洲会病院にお世話になった。徳田先生には感謝の気持ちしかない。今後も天国からこの国を見守ってくださいとお願いした」と別れを惜しんだ。
by めい (2024-10-26 07:46)