退院の7月31日まで秒読み。帰ってからのくらしを思う。思い描くのはゆったりした暮らし。もうバタバタから解放されたいと思いつつ、バタバタの源流に徳田さんが在ることに気付いた。結婚して1年後の昭和56年3月、徳田さんと出会って以来、仙台や東京での「獅子の会特別訓練」に仲間と共に何回か参加したのだが、その時示されたのが徳田さんの手帳だった。「月火水木木金金」、365日休みなし、年中無休で突っ走る徳田さんの毎日がわかる手帳だった。毎日のがんばり具合が、ひとつ丸、ふたつ丸、みつ丸、花丸で評価されていた。「あんたらもこれをやれ!」というのだった。何かそれに類したまねごとはやったのかもしれないが、みんな長くは続かなかったようだ。徳田さんのような「怒り、悲しみ、恐怖心」に裏づけられた、実力の100倍の目標の持ち合わせがなかったのだ。ただ、そのようにしてがんばれという徳田さんの訓えが強迫観念となって染みついた。今回の入院を「これまでのくらしをあらためる機会」と考えていたのだが、その途上での徳田さんの訃報だった。
・
* * * * *
・
《追悼評伝》徳田虎雄氏“不随の病院王”の功罪「『絶対善』の目的のためには手段はすべて肯定される」 伝説の選挙戦「保徳戦争」では現金が乱舞し選挙賭博も横行
* * * 一個の人間のなかには善なる部分と悪の部分が同居していて、完全な善人や悪人など存在しないと私は思っている。だが、その男はスケールが違った。いや、善とか悪といった判断基準すら持ちあわせていなかったのではないか、と訝る。 その男──徳田虎雄が逝った。享年86。この国最大級の医療グループ・徳洲会を裸一貫から一代で築きあげた男の原点は、生まれ故郷である徳之島にあった。 行政区域としては鹿児島県に属し、沖縄諸島との間に浮かぶ奄美群島の島で徳田が生まれたのは1938年。間もなく終戦を迎えると奄美は沖縄などと同様、米軍統治下に置かれ、ただでさえ貧しかった亜熱帯の島は極貧の底に沈んだ。 徳田が小学3年のとき。大した病ではなかったのに、幼い弟が医師に診てもらえもせず死んだ。貧困と離島ゆえの悲哀。同じ目に遭う者をなくしたいと、だから医師になって離島や僻地に病院を作ると、徳田は一貫して訴え、おそらくそこに嘘はない。もう10年以上前、私が島で取材すると、幼少期の徳田を知る古老もこう懐かしんだ。 「トラオさん、すごく泣いてね。あれ以来、『医者になる』って言い出して。みんなは『トラオが医者になれるわけない』とバカにしとったけど」
伝説の「保徳戦争」
だが、徳田は苦学して大阪大医学部に進んで医師となり、1973年には巨額の借金を負って大阪・松原に最初の病院を開く。このとき弱冠34歳。以後、猛烈な勢いで全国に徳洲会病院を開設し、「命だけは平等だ」「年中無休、24時間オープン」といったスローガンを掲げ、悲願だった故郷の島に病院を開設したのは1986年──。 そう記せば、幼き日の悲哀をパワーに変えた男の出世譚である。だが、徳田はそんな常識の範疇に収まらない。強引な病院開設は各地の医師会などと激しい軋轢を引き起こし、徳田の側から見ればそれは巨大な既得権に胡座をかく連中の独善に映ったし、医師会の側からは安定した医療秩序を破壊する狼藉者に見えたろう。 そのどちらの言い分に理があったかはともかく、医師会は与党・自民党を支える牢固な政治勢力でもあり、これと対峙して「医療改革」を遂げるには政治力が必要だと徳田は思い定める。
故郷の奄美群島区から徳田が衆院選に初出馬したのは1983年。そして、これが徳田の徳田たる所以なのだが、目的のためには手段を選ばない。もう少し正確に記せば、離島や僻地に医療を届けるという「絶対善」の目的を達するには、手段はすべて肯定され、善悪など考えもしない。傍目には馬鹿げた法螺話を吹き、目の前が赤信号でも猪突猛進する。 徳田の最側近として徳洲会の実務を一手に任されていた能宗克行も、苦笑してこう明かした。 「車を運転していると理事長(徳田)からしょっちゅう怒鳴られました。『親の死に目にあえるかどうかっていう時に信号を守るやつがどこにいる!』って。理事長にしてみれば、多くの命を守るための病院建設はそれほどの重要事なんですが、一般の方には理解されないでしょう(笑)」 徳田が出馬した奄美群島区には、世襲議員の保岡興治がいた。しかも最強軍団と謳われた自民党田中派に属し、以後の長きにわたる「保徳戦争」はもはや“伝説”である。 選挙戦では現金が乱舞し、買収や贈賄は日常茶飯。選挙賭博も横行し、首長選では選管トップが直接関わって捕まる不正投票事件まで起きた。世の常識からすればすべて「絶対悪」に類する所業だが、往時の様子を現地で取材すると、もともと闘牛や賭博が盛んな島のおおらかさも相まって、どこか豪気な笑い話に感じられてしまうのは不思議だった。
栗本慎一郎氏が明かした「徳田の本質」
もちろん、このような所業を肯定するつもりはないが、稀代の病院王であると同時にキワモノ政治家にもなった徳田は、左右を問わぬ政治家や文化人に慕われもした。石原慎太郎、鳩山由紀夫、城山三郎、野坂昭如、高橋三千綱……。 その一人で、明治大教授を経て政界に転じ、一時は徳田と政治行動を共にした栗本慎一郎は、徳田の本質をこう回顧した。 「明らかに汚いし、マズいと思うことはいくつもあったけど、根が純粋なんです。悪事をするのに純粋もくそもないけど、それでも純粋なんです」
そして栗本は評した。「汚くないウンコ」みたいだった、と。 たしかに徳田は世の常識や法など屁とも思わない狼藉者であり、キワモノであり、特に政治絡みの無法な所業の数々は断じて認め難い。しかし一方、すべては幼き日の悲哀を原点とする「絶対善」と評せる目的のためであり、現実にそれを実現させてもきた。徳田を蛇蝎のごとく嫌う鹿児島の医師会幹部ですらこう語ったのだ。「素直に認めざるを得ない部分もある。鹿児島の離島医療を徳洲会が担っているのは事実だから」と。 そんな徳田がALS=筋萎縮性側索硬化症を発症したのは2001年。全身の筋力が徐々に失われ、最後は意思表示すら困難になる難病に病院王が罹患したことを、いまは亡き石原慎太郎は「現代の英傑」に「神が与えた試練」だと大袈裟に評して涙ぐんだ。 一方の徳田は、すでに眼の動きでしか意思を伝えられなくなった2011年時点での私の取材に「これからが人生の勝負」「あと5年は私が体制を作る」と豪語し、実際に病室からグループ経営を指揮し続けていた。 だがそのわずか2年後、徳洲会は公選法違反容疑で東京地検の大々的捜査を受け、徳田は理事長の座を追われた。過去の所業を思えばむしろ遅すぎた感もあるし、以後の約10年、徳田が何を想いどんな日々を送ったか、直接訊く機会を持たなかったのは心残りでもある。 いずれにせよ、傍若無人なキワモノである一方、「絶対善」の目標へと猪突猛進する、徳田のような人物が現下のこの国に生まれることはないだろう。法令遵守やらコンプライアンスやらの号令ばかり声高に叫ばれる昨今、それが良いことか悪いことかは別として、少し寂しく私は感じたりもしている。 【プロフィール】 青木理(あおき・おさむ)/1966年、長野県生まれ。ジャーナリスト。共同通信でソウル特派員などを務め、2006年からフリーに。本誌で2011年に『トラオ 徳田虎雄 不随の病院王』を連載。近著に『時代の反逆者たち』。
【解説】元衆議院議員の徳田虎雄さん死去(青木理)
https://www.youtube.com/watch?v=BeTD738PeeU
by めい (2024-08-13 06:43)
「医療界の革命児」徳田虎雄氏の足跡「生命だけは平等ですから」徳洲会設立、政界進出、保徳戦争…波乱万丈の一生を振り返り 鹿児島
https://www.youtube.com/watch?v=r3Xuz903rFc
by めい (2024-08-13 06:55)