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「私はワクチンのために人生を狂わされた」(高田敏子) [コロナ危機]

中村篤史先生のnoteで、辛い文章を読んだ。私には、鬼気迫る文章だ。→「公衆衛生から全体主義へ」https://note.com/nakamuraclinic/n/nb5508000e4ee

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私はワクチンのために人生を狂わされた

今から十年前、私たちは一間六畳の部屋から第二の人生を出発したのです。貧しいながらも二人で協力し助け合いながら楽しい日々を暮らしておりました。そして一年後、長男正明が誕生したのです。私たち夫婦の喜びは、それは大変なものでした。三か月後首も座り、八カ月頃にはお座りもでき、十一カ月にはつかまり歩きをし、一年前後には「オトータン、オカータン、ワンワン、マンマ」と片言も言えるようになり、親バカかもしれませんが、それは目の中に入れても痛くないほどでした。
一年三カ月、ちょうどヨチヨチ歩きを始めたときです。昭和三七年一二月に保健所で種痘(天然痘ワクチン)をしました。そして一週間くらいして発熱、吐き気をもよおし、目に光がなく、ものを持つ手が小刻みに震えていました。近くの開業医で風邪かなという診断でした。そして数日後、大発作を起こし救急車で私立病院に運ばれましたが、正月休診のため精密検査もしてもらえず、何日か入院しましたがこのままでは子供の生命が危ないと思い、病院を退院させてもらい、東大分院に連れて行きましたが、ベッドがいっぱいとのことで診察もしてもらえず、私たちは行く先も分からず廊下にうずくまっていました。そして親切な医師に出会い都立病院を紹介され、入院することができました。そして種痘後脳炎という診断を受けました。そのときこの病気が恐ろしい後遺症を残しこの子の人生をまったく変えてしまうことなど私は考えてもみませんでした。ただ子供の回復を神に祈るだけでした。
入院してまもなく発作に襲われ、意識を失い、鼻からミルクを流したりリンゲルなどをしていました。正明の両足は注射のあとで紫色に腫れあがり、あまりに痛々しい姿に何度この私が身代わりにと思ったかしれません。十数日後意識が戻り、ミルクを一人で飲むようになりました。それもつかの間、また発作を起こし意識がなくなるのです。そんなことを繰り返しながら何日か過ぎた後、意識は戻りましたが首がだらりとし、左半身麻痺、左手も左足もくの字に曲がり、一人で座ることもできず、病院のベッドに寄りかかっているのです。私たちがそばに寄っても両親の顔さえ忘れてしまったのです。おもちゃであやしても見ようともせず手を出そうともしないのです。そんな変わり果てた我が子を、ただ力いっぱい抱きしめることしか知りませんでした。八か月後、左半身麻痺、運動障害、精神障害、てんかんなど数々の後遺症を背負って退院したのでした。
入院中私たちは子供の看病と精神的な疲れだけでも大変なのにそのうえ経済的にも大変でした。主人の収入はすべて治療費に、そのため私はパートで働きましたが少しばかりのお金では何の役にも立ちませんでした。一杯の食事を遠慮しつつ親戚から食べさせてもらいました。退院後私たちはいいと聞く病院があればどこにでも行って診察を受けました。けれどその後に待っているものは、ただ疲れと絶望だけでした。けれど私は子供のために病気には負けていられませんでした。雨の日も雪の日も風の日も真夏の暑い日にも毎日だんだん重くなってくる子供を背負い、マッサージに通い続けました。そしていくらか歩けるようになると外に連れ出し歩く訓練をしました。広場に連れ出しても喜ぶでもなく、ところかまわず寝転んでしまうのでした。家では左手の訓練と思い、四つん這いになって「はい、お馬だよ」と言いながら気を引き立て引き立て正明と一緒になって部屋のなかを這いまわっていました。
マッサージの効果と訓練の効果があったのか、五年後ようやく一人で少しは歩けるようになりました。簡単なことは少しは分かるようになりました。少しばかり分かるようになるとアパートの廊下で子供たちの声がすると出て行きたがります。出すとすごく喜ぶのですが、今度は子供たちにいじめられるのです。思いあまって注意すると、その子供たちの親は自分の部屋のなかに子供たちを入れて遊ばせます。正明は入りたくて戸をドンドン叩きながら泣いているのですが、なかから錠をかけてしまい開けてはくれませんでした。私もどうしてよいのか分からず一緒に泣くだけでした。
体が不自由ながら動くようになったのと、いつ襲って来るか分からない発作とでだんだん目が離せなくなってきました。炊事、洗濯、買い物など落ち着いてできなくなりました。私はどうしても通園施設が必要になってきました。公立の施設を希望したのですが、手がかかり過ぎるということで簡単に断られてしまいました。そして仕方なく私立の通園施設に入れていただきました。交通費を含め一か月一万円は家具職人には大変でした。入院やその後の治療費を主人一人におぶさっていましたので、主人は大変で、家に帰って来てからも内職をしなければなりませんでした。ですので、私が代わりに酒場に出て働くことになりました。主人は男泣きに泣きました。私は飲めもしない酒を口にし、おもしろくもないのに笑顔を作り、生活のために客の機嫌を取りました。真夜中の道を泣きながら歩き、家に帰ったものでした。
帰りの遅い仕事などをしていますと、朝などときどき寝坊もしてしまい、妻の勤めもだんだんおろそかになり、つまらないことから夫婦喧嘩が絶えなくなり、夜の仕事は思い切ってやめることにしました。
そして現在、正明はただ物を投げる遊びを楽しみとし、手あたり次第に物を投げています。そして小さな発作は一日何回も、大発作も週一回くらい起こします。そんな生活を送っている私たちですので、この八年間は一度も行楽の日などありません。いつだったか、生きる希望も失い一家心中を考えました。ですが、私たちはその前にやならければならないことがあったのです。これは法の強制接種でなったのですから、全面的に国に責任があるわけです。これ以上不幸な子供を作らないためにも、世の人々にこの病気の恐ろしさを知っていただかなければなりません。そして、私たちは勇気を出して新聞社に訴えたのです。たとえ正明は心身障害児になっても生きています。生きる権利も幸せになる権利もあるのです。国は責任ある態度を示してください。でなければ私は種痘のために人生を狂わされ、一生種痘を憎みます。

高田敏子


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