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辻原登「陥穽」 [雲井龍雄]

安井息軒像.jpg陸奥宗光(1844.8.20-1897)の前半生を描く日経連載小説「陥穽」(辻原登)がおもしろい。今朝の分に《小次郎(陸奥宗光)が安井息軒の三計塾に通い始めた頃、息軒は六十歳。日向(ひゅうが)の人で、江戸期儒学の掉尾(ちょうび)を飾る碩学(せきがく)とされる。字(あざな)は仲平(ちゅうへい)。/小次郎もその盛名を父から聞いていたことから、江戸に下った暁には、先ずその門を敲こうと固く決めていた。》安井息軒は雲井龍雄(1844.5.12-1871 )の師。奇しくも同年の生まれ。しかし、宗光の入塾は安政5年(1858)、龍雄は慶応元年(1865)でだいぶ開きがある。宗光はまだ14歳。ウィキペディアに《江戸に出て安井息軒に師事するも、吉原通いが露見し破門》とあったから、小説の展開がどうなるか明日が楽しみ。

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辻原登「陥穽」(62)

小杉小二郎 画

江戸は、当時人口百万人近くを抱える世界最大の都市だった。ロンドンやパリですら五十万人前後で、識字率は四十パーセントを越えていた。

江戸の街に解き放たれた小次郎は、大都会の細民となって、様々な業種の日銭(ひぜに)仕事をこなしながら、週に一度、欠かさず三計塾に通い、寸暇を惜しんで本を読んだ。薬研堀(やげんぼり)の薬種(やくしゅ)屋では住込みで草の根や木の皮を刻み、薬研で漢方薬を磨(す)り下ろした。薬種屋を辞めて、偶然知り合った二、三人の仲間と、茅場町の九尺(くしゃく)二間の棟割長屋を一月(ひとつき)八銭で借りて、寺子屋の教本の抄写、手紙の代筆、草双紙(くさぞうし)や錦絵を扱う地本(じほん)問屋の手代などを務めて糊口を凌いだ。やがて日本橋葺屋町(ふきやちょう)の飛脚の大手、近江屋に時間給で雇われ、町飛脚となって江戸市中を駆け巡るようになった。彼は誰よりも俊足だった。

小次郎は、大江戸八百八町を走りながら、街の様子や佇まいを仔細に観察した。木挽町では守田座を、神田お玉ヶ池では北辰一刀流千葉道場をのぞき、土手八丁(日本堤)を駆けて、吉原の見返り柳と大門(おおもん)を好奇の目で眺めた。

両国橋のたもとで、十六文の "夜なきそば" を掻き込むこともあった。

「今度(こんだァ)、黒船が何十隻も押し掛けて、江戸に何百発も大砲(おおづつ)をぶち込むってなあ」

「なあに、地震と火事に較べりゃ大(てえ)したことねえやさ」

「それよりゃ、近いうち公方様(くぼうさま)と天朝様(てんちょうさま)との戦(いくさ)があるって噂だぜ。どっちが強いか、ちょいと見物(みもの)だな。おやじ、もう一杯くれ」

などと鳶(とび)の二人連れが遣り取りするのを、傍らで耳を澄ましていた。

小次郎が安井息軒の三計塾に通い始めた頃、息軒は六十歳。日向(ひゅうが)の人で、江戸期儒学の掉尾(ちょうび)を飾る碩学(せきがく)とされる。字(あざな)は仲平(ちゅうへい)。

小次郎もその盛名を父から聞いていたことから、江戸に下った暁には、先ずその門を敲こうと固く決めていた。

三計塾の三計とは、「一日の計は朝(あした)にあり、一年の計は春にあり、一生の計は少壮の時にあり」という息軒の信条から択(と)られていた。

十三歳年下の息軒の妻女は、息軒の郷里では「岡の小町」と呼ばれた美しい女性だったが、形振(なりふ)り構わず働いて、夫の貧乏生活を支えたことで知られ、委細は森鷗外の短篇「安井夫人」に詳しい。

陥穽副読本

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めい

安井息軒を継ぐ人々(5)ー陸奥宗光と立憲思想
file:///Users/takaoka/Downloads/ShakaiKagakuSogoKenkyu_13_3_Koga-1.pdf
《陸奥は余り困難を伴うことなく西洋の立憲思想を受け入れた、ということである。何故か。それは陸奥が『管子』を介して西洋の立憲思想を受け入れたと推測できるからである。であれば当然安井息軒の影響があったと思われる。》

by めい (2023-05-05 04:29) 

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