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AIとは無縁なコトバの世界 [現状把握]

「【重要】今を生きる心構え30ヶ条」https://oshosina2.blog.ss-blog.jp/2023-04-16-3の24から30は、人工知能(AI)の最先端GTP4が出してくれた答えです。至極もっともで見事な答えに思えます。「知の組み合わせ」に限れば、人間はAIには到底叶いません。AIに負けないようにするには、人間固有の「情」と「意」に基づく「創造的知」で勝負せねばなりません。その分野は私たちの営む日々の暮らしそのものです。そこでは《より自給自足的で、相互の結びつきが強く、外部からの操作やコントロールに影響されにくい社会》(30ヶ条の締めくくりの言葉)です。激動の中にあっても、足元の基本は変わりません。そういう今こそ、しっかり足元を固めることが大事と考えます。そこからすれば、AIは頭の先っちょにすぎません。
チャットGPTについて、副島隆彦氏の発言がありました。このchatGPT というのは、インチキの、食わせ者の理論だ、と、断言する。公務員や、2流のコンサル屋が、適当に、あちこちから、文章を泥棒して来て、それを繋(つな)ぎ合わせて、まるで、自分が書いたような、立派そうなテキストを、作るのには、役に立つだろう。/真に、クリエイティヴ (とは、神しか出来ない、という意味。西洋では、クリエイションcreation は、神だけがする。人間がする、モノづくりの、技(わざ)は、すべて「作る」だ)の 文章を書く者たちは、こんな、怪しい、機械は使わない。要するに、頭の先っちょの「知」のレベルでの文章作りには役立つかもしれないが、自分の書く文章には「情」もあり「意」もある。「血」が流れている文章だ。そういう文章を書く者にとって、チャットGPTは無縁の機械である、ということです。全く共感同意です。
吉本隆明は、自著『言語にとって美とは何か』についてこう言っています。《こんど読みかえしてみて、無意識だったがじぶんはじぶんがそのときおもっていたよりも、ずっと重要なことをやったなと感じて、すこし興奮しながら旧稿を読みおえた。いまおなじことをやれと言われれば、ちがうやり方をするだろうし、すこしは成熟しているだろうが、旧稿のこころがおどるような発見の手ごたえは、なかなか獲得できないとおもう。読者に知識といっしょにそのこころおどりが提供できたら、なによりだと思っている。》『定本 言語にとって美とはなにか1これについて、若松英輔氏が言う。《「こころおどり」とは、魂の実感でもあるだろう。彼(吉本)にとって思想を包含するもっとも創造的な意味における文学は、「こころおどり」によって人間が交わる場だった。言葉によって開かれた場所で人は、他者と交わり、そのことによって自己を知ることができる。》「魂の実感」としての「こころおどり」。若松氏の言葉を受けてこう書いた。「こころおどり」があればこそ、吉本の文章を、若松氏の文章を読む。井筒俊彦を読む心にも通ずる。・・・こう書きつつ、たしかに私の魂はおどっている。》(「最も深い「吉本隆明論」(若松英輔さん)」https://oshosina.blog.ss-blog.jp/2014-08-23
副島氏発言の後に、若松英輔氏直近のいい文章(4/16日経記事)を転載しておきます。ここにもAIとは無縁な世界があります。
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今、急に騒がれてるようになった、chat GPT (チャット・ジー・ピー・ティー)という、AI(エイ・アイ、人工知能)を使った、言語処理技術で、自動的に、さらさらと、どんどんテキストを、自分の望むように、製造してくれる、マシーンが出来たのだそうだ。 

chat GPT (チャット・ジー・ピー・ティー)は、 Chat Generative Pre-trained Transformer  チャット・プレトレインド・トランスフォーマー)と言う。
 「生成(せいせい)できる事前学習済み 変換機」 のことだそうだ。 私が、40年前に勉強した、アメリカの英文法理論 の 学界 に、 生成変形文法(せいせい・へんけい・ぶんぽう)学派 というのが有って、ノアム・チョムスキー(こいつを、私は、ずっと疑っている。反権力運動の英米での教祖扱い の人物 )が、その創業者で、この「これまでにないものを創る、と言う意味の 生成(ジェネレイテイブ)し、変形(トランスフォメイション)する文法学(グラマー)という」学派だった。

 そうか。あのチョムスキー学派の、いんちき野郎たちが、40年間か けて、こんなものを創っていたのか。 私は、このchatGPT というのは、インチキの、食わせ者の理論だ、と、断言する。

  公務員や、2流のコンサル屋が、適当に、あちこちから、文章を泥棒して来て、それを繋(つな)ぎ合わせて、まるで、自分が書いたような、立派そうなテキストを、作るのには、役に立つだろう。

 真に、クリエイティヴ (とは、神しか出来ない、という意味。西洋では、クリエイションcreation は、神だけがする。人間がする、モノづくりの、技(わざ)は、すべて「作る」だ)の 文章を書く者たちは、こんな、怪しい、機械は使わない。

 それ以前に、私、副島隆彦は、「人間は、 AI( 人工知能 ) を、作れない。完成するには、あと500年かかる 」と言って、絶望した、1980年代まで、AI研究の第一人者だった、マービン・ミンスキーMIT教授(すでに死去)の考えを、すでに30年前の自分の本に書いた。

 そして、3年前に、「AIは、作れない。AI技術者、学者たちは、失望して去って行った」論を、割と詳しく、自分の論文として書いて雑誌に発表している。そのうち、こちらに公開しよう。

 人間(ごとき)が、人間と同じように、思考(intellect インテレクト、知能)する 機械を作ることは出来ない、と、私は、はっきりと断言する。ここに至る、この40年のAI学者たちの、大きな流れも、私は、描いた。

 参政党のワルの、 人ダマしのタヌキ たちは、すぐに、このchatGPT の ようなコンピュータ・ソフトを使って、 この 南雲香織(なぐもかおり)という幻影(げんえい)を製造したのだろう。日本の反ワクチン運動を、扇動して、ダマして、自分たちの方に持ってくる為(ため)である。

 私たちは、慎重になって、用心、注意、警戒して、政治言論の中に、入り込んでくる、おかしな勢力からの 洗脳の攻撃に乗らないようにしなければいけない。
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噓のない場所〜武者小路実篤「沈黙の世界」 若松英輔

イラスト・西 淑

秘義はらむ噓のない場へ

意味には深みがある。むずかしいことではない。ある人の語ったことが、数日、あるいは数年、さらにいえば、その人が亡くなってはじめて、ありありと感じられる、そんな経験は多くの人にあるだろう。意味の深みという言葉は、ややもすれば人は、浅い意味にしかふれ得ないまま毎日を生きている、そんな厳しい現実があることを暗示してもいる。

言葉には、辞書的な意味である「字義」だけでなく、秘められた意味である「秘義」がある。人は日常生活で、時と場合を選びながら字義と秘義を絶妙に使い分けている。

字義は社会的なものだから、勉強もでき、辞書などを調べればその内容も確認できる。だが、秘義は違う。それは勉強の埒外(らちがい)にある。秘義は生き、経験され、体得されなくてはならない。秘義を集めた辞書はない。そもそも秘義には、多くの場合、言葉たり得ないことが、意味として宿っている。苦しみにも秘義がある。だが、それを何であるのかは言えないのである。

他者の語ること、書くことを字義だけで理解する。そこには「正しい」理解は存在する。学校の試験の世界では字義が理解できればそれでいい。しかし、誰かと友情を、愛情、あるいは信頼を育もうとするとき、字義を超え、秘義を分かち合おうとしなければ関係は、あるところまでしか深化しない。

「思っていることがあるなら、言って欲しい。言葉にしなければ分からない」、そんなことを自分も言ったことがあるし、誰かが言うのも聞いたことがある。

この発言は、まったくその通りで本当のことだ。しかし、こうした発言が飛び出したとき、人間関係にひびが入ることがあっても深まることは少ないのではないだろうか。言ったことだけを理解するとき、人は字義の世界から一歩もでていない。秘義に向かって開かれるとき、自(おの)ずと沈黙に寄り添うようになる。

晩年、作家の石牟礼道子さんとしばしば会う機会があった。さまざまなことも話し、記録に残る対談をしたこともあるが、真に忘れがたいのは、介護施設の部屋でふたりきり、黙って過ごしたひとときだった。

石牟礼さんは病のために思ったように話せなくなるようなことが時折あった。ある日、話している途中で調子がよくなくなったように見えたので、看護師を呼び、石牟礼さんのからだを横にすることにした。看護師が部屋から出たので、「今日は私もこれで失礼します」と言うと、細い声で石牟礼さんが「せっかくなので、もう少し……」と消えいるような声で言いながらベッドの布団から細い手を出した。

何も考えず、その手を握り、しばらく沈黙のまま二人で時間を過ごした。三十分ほどだったのかもしれない。無音の会話が自然に終わったような気がして、彼女の部屋を後にした。

武者小路実篤が「沈黙の世界」(『人生論・愛について』所収)と題する一文を書いている。そこで彼は「言葉の世界に住んでいると、沈黙の世界がなつかしくなる」という。何気ない文言だが、沈黙の世界こそが、故郷と呼ぶべき場所であることを強く思い出させてくれる。武者小路は多作な作家だったが、画家としても多作だった。彼は多くの言葉を書く必然もあったのだが、苛烈なまでに絵を描かねばならない理由もあった。絵を描くとは、彼にとって沈黙の世界に生きようとすることだったのである。先の一節のあとに彼は「画の世界は沈黙の世界だ。言葉は必要がない。言葉の表現は、考える必要がない。噓を言う必要のない世界だ」と言葉を継いでいる。

沈黙の世界は、なつかしいだけでなく、噓のない世界であるという言葉にふれたとき、真実に胸を突かれたような思いがした。彼は、言葉の世界が噓の世界だといいたいのではない。しかし、言葉の世界に噓が混じりやすいことに説明はいらないだろう。

武者小路がいう「噓」は必ずしも虚偽を意味しない。意識されないこと、あるいは思いを封じていることでもあるだろう。

人は、言葉から容易に離れることはできない。黙っていても心のなかでは言葉が渦巻き、眠っていても夢のなかで言葉はその活動を止めない。そうした時間は必然的に「噓」を伴う。

一日のなかで、どんなに短くても、噓と関係を断てるひとときを生まねばならない。噓のない場所に立つとき人は、自らの人生に宿った意味の深みもまた、感じ得るのではないだろうか。

(批評家)


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