AIとは無縁なコトバの世界 [現状把握]
chat GPT (チャット・ジー・ピー・ティー)は、 Chat Generative Pre-trained Transformer チャット・プレトレインド・トランスフォーマー)と言う。
「生成(せいせい)できる事前学習済み 変換機」 のことだそうだ。 私が、40年前に勉強した、アメリカの英文法理論 の 学界 に、 生成変形文法(せいせい・へんけい・ぶんぽう)学派 というのが有って、ノアム・チョムスキー(こいつを、私は、ずっと疑っている。反権力運動の英米での教祖扱い の人物 )が、その創業者で、この「これまでにないものを創る、と言う意味の 生成(ジェネレイテイブ)し、変形(トランスフォメイション)する文法学(グラマー)という」学派だった。
そうか。あのチョムスキー学派の、いんちき野郎たちが、40年間か けて、こんなものを創っていたのか。 私は、このchatGPT というのは、インチキの、食わせ者の理論だ、と、断言する。
公務員や、2流のコンサル屋が、適当に、あちこちから、文章を泥棒して来て、それを繋(つな)ぎ合わせて、まるで、自分が書いたような、立派そうなテキストを、作るのには、役に立つだろう。
真に、クリエイティヴ (とは、神しか出来ない、という意味。西洋では、クリエイションcreation は、神だけがする。人間がする、モノづくりの、技(わざ)は、すべて「作る」だ)の 文章を書く者たちは、こんな、怪しい、機械は使わない。
それ以前に、私、副島隆彦は、「人間は、 AI( 人工知能 ) を、作れない。完成するには、あと500年かかる 」と言って、絶望した、1980年代まで、AI研究の第一人者だった、マービン・ミンスキーMIT教授(すでに死去)の考えを、すでに30年前の自分の本に書いた。
そして、3年前に、「AIは、作れない。AI技術者、学者たちは、失望して去って行った」論を、割と詳しく、自分の論文として書いて雑誌に発表している。そのうち、こちらに公開しよう。
人間(ごとき)が、人間と同じように、思考(intellect インテレクト、知能)する 機械を作ることは出来ない、と、私は、はっきりと断言する。ここに至る、この40年のAI学者たちの、大きな流れも、私は、描いた。
参政党のワルの、 人ダマしのタヌキ たちは、すぐに、このchatGPT の ようなコンピュータ・ソフトを使って、 この 南雲香織(なぐもかおり)という幻影(げんえい)を製造したのだろう。日本の反ワクチン運動を、扇動して、ダマして、自分たちの方に持ってくる為(ため)である。
私たちは、慎重になって、用心、注意、警戒して、政治言論の中に、入り込んでくる、おかしな勢力からの 洗脳の攻撃に乗らないようにしなければいけない。
噓のない場所〜武者小路実篤「沈黙の世界」 若松英輔

秘義はらむ噓のない場へ
意味には深みがある。むずかしいことではない。ある人の語ったことが、数日、あるいは数年、さらにいえば、その人が亡くなってはじめて、ありありと感じられる、そんな経験は多くの人にあるだろう。意味の深みという言葉は、ややもすれば人は、浅い意味にしかふれ得ないまま毎日を生きている、そんな厳しい現実があることを暗示してもいる。
言葉には、辞書的な意味である「字義」だけでなく、秘められた意味である「秘義」がある。人は日常生活で、時と場合を選びながら字義と秘義を絶妙に使い分けている。
字義は社会的なものだから、勉強もでき、辞書などを調べればその内容も確認できる。だが、秘義は違う。それは勉強の埒外(らちがい)にある。秘義は生き、経験され、体得されなくてはならない。秘義を集めた辞書はない。そもそも秘義には、多くの場合、言葉たり得ないことが、意味として宿っている。苦しみにも秘義がある。だが、それを何であるのかは言えないのである。
他者の語ること、書くことを字義だけで理解する。そこには「正しい」理解は存在する。学校の試験の世界では字義が理解できればそれでいい。しかし、誰かと友情を、愛情、あるいは信頼を育もうとするとき、字義を超え、秘義を分かち合おうとしなければ関係は、あるところまでしか深化しない。
「思っていることがあるなら、言って欲しい。言葉にしなければ分からない」、そんなことを自分も言ったことがあるし、誰かが言うのも聞いたことがある。
この発言は、まったくその通りで本当のことだ。しかし、こうした発言が飛び出したとき、人間関係にひびが入ることがあっても深まることは少ないのではないだろうか。言ったことだけを理解するとき、人は字義の世界から一歩もでていない。秘義に向かって開かれるとき、自(おの)ずと沈黙に寄り添うようになる。
晩年、作家の石牟礼道子さんとしばしば会う機会があった。さまざまなことも話し、記録に残る対談をしたこともあるが、真に忘れがたいのは、介護施設の部屋でふたりきり、黙って過ごしたひとときだった。
石牟礼さんは病のために思ったように話せなくなるようなことが時折あった。ある日、話している途中で調子がよくなくなったように見えたので、看護師を呼び、石牟礼さんのからだを横にすることにした。看護師が部屋から出たので、「今日は私もこれで失礼します」と言うと、細い声で石牟礼さんが「せっかくなので、もう少し……」と消えいるような声で言いながらベッドの布団から細い手を出した。
何も考えず、その手を握り、しばらく沈黙のまま二人で時間を過ごした。三十分ほどだったのかもしれない。無音の会話が自然に終わったような気がして、彼女の部屋を後にした。
武者小路実篤が「沈黙の世界」(『人生論・愛について』所収)と題する一文を書いている。そこで彼は「言葉の世界に住んでいると、沈黙の世界がなつかしくなる」という。何気ない文言だが、沈黙の世界こそが、故郷と呼ぶべき場所であることを強く思い出させてくれる。武者小路は多作な作家だったが、画家としても多作だった。彼は多くの言葉を書く必然もあったのだが、苛烈なまでに絵を描かねばならない理由もあった。絵を描くとは、彼にとって沈黙の世界に生きようとすることだったのである。先の一節のあとに彼は「画の世界は沈黙の世界だ。言葉は必要がない。言葉の表現は、考える必要がない。噓を言う必要のない世界だ」と言葉を継いでいる。
沈黙の世界は、なつかしいだけでなく、噓のない世界であるという言葉にふれたとき、真実に胸を突かれたような思いがした。彼は、言葉の世界が噓の世界だといいたいのではない。しかし、言葉の世界に噓が混じりやすいことに説明はいらないだろう。
武者小路がいう「噓」は必ずしも虚偽を意味しない。意識されないこと、あるいは思いを封じていることでもあるだろう。
人は、言葉から容易に離れることはできない。黙っていても心のなかでは言葉が渦巻き、眠っていても夢のなかで言葉はその活動を止めない。そうした時間は必然的に「噓」を伴う。
一日のなかで、どんなに短くても、噓と関係を断てるひとときを生まねばならない。噓のない場所に立つとき人は、自らの人生に宿った意味の深みもまた、感じ得るのではないだろうか。
(批評家)
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