SSブログ

牧野房先生 [弔辞]

牧野房先生を偲ぶ 1.jpeg牧野房先生を偲ぶ 2 1.jpg
牧野房先生葬儀1.jpg牧野先生3.jpg
まだまだ元気でおられるとばかり思っていたのに、おとといの新聞での訃報はショックだった。「宮内人 小田仁二郎」をいちばん読んでほしい先生だった。宮内小の150周年記念誌が落ち着いたらうかがおうと、ずっと思っていた。記念誌の方では、先生が編集された『南陽市のうた』にひとかたならずお世話になっている。そのことの報告もしなければならなかった。先生とは同級の八戸にいる叔母の「毎日ラジオ体操やってるよ」という元気な声を最近電話で聞いたばかりだったので、牧野先生もてっきりそのつもりだった。昭和3年のお生まれだから94歳、脳梗塞とのことだが、大往生と言っていい。しかし私の中では、妹の担任としてはじめて知った60数年前からずっと変わらない、いつもお若い姿形だった。私の市民大学講座にはしばしばおいでいただいたのもうれしかったし、励みになった。最後にお会いしたのも2年ぐらい前、何か書いたものをお持ちしたように思えるが、それがなんだったか今思い出せない。150周年記念誌の牧野先生の項を没年を書き加えて転載しておきます。多くのご著書が手元にあるので、亡くなられてかえって身近かになったような気もする。
*   *   *   *   *
●牧野房(1928-2023)
 牧野房は昭和3年、元屋敷に生まれ、教員生活のかたわら、はやくから宮内アララギ会員として歌人として戦後の宮内文化とともに歩んできました。文学との出会いは昭和16年12歳の時、宮内高等女学校の青年教師原知一先生との出会いでした。原先生は黒江太郎とともに宮内アララギ会を起こしました。牧野は平成24年宮内アララギ会の代表を務めることになります。
 自身の多くの歌集もさることながら、牧野房ならではの仕事が、昭和2年(1927)から平成9年(1997)までに詠まれ、出版された南陽市関連の歌集の中から、691首 を選んでテーマごとにまとめられた『南陽市のうた』(南陽市教育委員会 平成28年発行 )です。
 「多くの歌集や随筆集を出版し歌壇で活躍するほか、小中学校の短歌教室の講師を務めるなど後進の育成にも尽力」ということで、平成29年度斎藤茂吉文化賞を受賞しています。宮内中、漆山中、吉野中が統合して新・宮内中学校誕生に際しては、新・宮内中校歌を作詞しました。
 随筆集『風也集』( 一粒社 平成17年 )、『置賜集』(一粒社 平成24年)には小田仁二郎、藤沢周平等多くの文人との関わりが記されていて貴重です。宮沢川のほとりの小田仁二郎の家のすぐそばが牧野の生家で子供の頃から小田の姿を見ていたのでした。 
 88歳で上梓した歌集『一本の道』の最後はこの歌で閉められます。
  一本の道の未だしみづからの拙さをつね曝けだしつつ


nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。